津波被害が大きかったことで知られる宮城県女川町。この地にある曹洞宗寺院に、震災直前に住職として赴任してきた若き住職がいる。震災で人口は減少し、地域は衰退の一途をたどっているか……と思いきや、答えは「否」。
多くの檀家を失いながらも、「お墓さえ残っていればお寺は大丈夫」と語るこの住職に、「震災後の15年」について聞いた。(文:山川徹 写真:熊谷祐治)

3・11とコロナでお寺で葬儀する檀家が減った
護天山保福寺。銀鮭の養殖が盛んな宮城県女川町の尾浦という浜を見守るように建つ、曹洞宗の寺院だ。2011年の東日本大震災で、尾浦は壊滅的な被害を受けた。津波に襲われる前、この浜には70軒ほどの住居があったが、保福寺と1軒を除き、すべて流失。約210人の住民のうち1割にあたる21人が犠牲となる。保福寺の檀家の死者は、約100人に上った。直後から保福寺は、避難所として被災者を受け入れた。70日間にわたり、最大250人が庫裏や本堂で共同生活を送ったのである。
震災から15年。かつて住家が並んだ浜には、養殖を営む住民の作業小屋が点在するだけ。変わったのは風景だけではない。女川町の人口も加速度的に減少している。2010年時の人口は約1万人。3・11を機に減少が続き、現在は約5800人。厳しい寺院運営を強いられているのではないか。そんな先入観に対し、保福寺の住職である八巻英成さんはこう切り出した。
「震災で人が減ってお寺さんも大変でしょう、とよく聞かれますが、実はそんなことはないんですよ」八巻さんに、この15年の歩みを聞いた。
八巻英成住職(以下、八巻) 少子高齢化が進み、人口が減った被災地ではお寺の維持が難しくなる……。そんなイメージを持っている方がほとんどだと思います。しかしお寺の運営という点に関していえば、うちは震災前とほとんど変わりません。その理由を一言でいえば、“お墓が無事だったから”です。
震災前、うちのお寺も地域集落を中心に檀家さんがいましたが、いまもほぼ横ばい。女川や石巻では、お墓が無事だったお寺は以前と変わらずにお寺を維持できているのではないでしょうか。檀家さんにとっては、本堂などの建物以上に大切なのが、お墓なんですね。被災後の保福寺もそうですが、私の実家である洞仙寺を見ても、そう実感します。
洞仙寺は、ここから少しだけ南、石巻市の桃浦という浜にあります。津波は、本堂や庫裏を突き抜けていきました。津波が引いたあとに残されたのは屋根だけ。あれから15年が過ぎますが、いまも本堂は建て直せていません。本堂の代わりに、いただいたご支援で、こぢんまりとしたお堂を建てました。
震災当初、洞仙寺がどうなるのか不安だったんです。しかしいまも檀家さんの数はほとんど減っていませんし、父は以前と変わらずにお寺の宗務を続けています。それは、お墓が無事だったからです。もし、お墓が流されていたら、はたしてお寺を維持できていたか。震災を経験して、檀家さんにとってお墓は、“帰ってくる場”だと改めて考えるようになりました。
裏を返せば、それだけ寺院という建物の存在意義が薄れてしまったともいえますよね。
3・11だけではなく、コロナの影響もあり、お寺でお通夜や葬儀を行う檀家さんは減りました。震災以前は、お寺での通夜や葬式と会館葬が半分半分くらい。その頃は、お寺の本堂で、通夜や葬儀を行ったあと、うちの広間で、みんなで食事をしていました。それが、親戚同士のつながりや地域のコミュニティを保つ場のひとつになっていました。
しかし、震災後の15年……いえ、この10年で、会館葬が一気に増えました。葬儀もそうですが、うちの広間で、みんなで食事をする機会はほとんどなくなってしまいました。
お寺は地元のママや大将がやっている町の居酒屋に似ているかもしれません。チェーン店に比べ、メニューの種類は少ないかもしれませんが、ママや大将、顔見知りの常連客と話せます。そんな雰囲気を味わいたくて暖簾をくぐる。そこで生まれたコミュニケーションや人と人とのつながりが、コミュニティを形作る。
寺院葬も同じで、故人の菩提寺で行う通夜や葬儀に参列すれば、故人と人のつながりに触れられるだけでなく、故人が暮らした集落の空気や雰囲気を味わえたのです。


増える会館葬、ならば住職が出向けばいい
先祖代々つながりがある寺院で、顔見知りの住職に故人を送る寺院葬に安心感を覚える遺族は少なくない。しかし寺院によっては、交通の便が悪かったり、バリアフリーに対応していなかったりする。
対して葬儀社のセレモニーホールや斎場は、空調や音響などが整い、バリアフリーにも対応している。寺院を中心にした地域コミュニティよりも、利便性を重視し、会館葬を選ぶ人が増えたのは女川に限らない。
「震災が、その傾向に拍車をかけました」と八巻さんは指摘する。
八巻 震災前までは、200人近い住民が、この尾浦で一塊になって暮らしていました。利便性の面でも、お寺に集まるほうが都合がよかった。
しかし震災を機に、200人が散り散りになりました。震災前は70数世帯ありましたが、震災後に近くの高台に移転したのは30数世帯。仕事を求めて仙台近郊の富谷市や利府町、女川の隣の石巻市に引っ越した人もいれば、女川中心部に居を構えた人もいます。ざっと数えると、5割が尾浦に残り、3割が女川、1割が石巻、1割ほどが仙台近郊という感じです。
そうすると葬儀に関して何が起きるか。大多数が尾浦に残っているとしても、ほかの町から葬儀に参列する人に配慮して、中間地点を選ぶ。しかも住民には高齢者も多い。空調が効いて快適な石巻や女川中心部のセレモニーホールで葬儀を行う檀家さんが増えました。
それに、会館葬は楽なんです。お寺で葬儀のあとに食事したら、みんなで掃除をしたり、後片付けをしたりしてもらう必要があります。お寺はみんなが使う場なので、準公共施設のような面がありますから。お寺の住職としてはそんな現状を寂しいと感じる半面、仕方がないなという気もするんです。
「お寺に来てください」
昔は住職がそう呼びかけたら、みんなお寺に集まってくれました。でもいまは、それが難しい時代です。
もしも震災がなかったら、寺院葬から会館葬への移行はもっとゆるやかだったはずです。寺院葬離れを防ぐ手を打てたかもしれませんが、震災からの15年を振り返ると、変化があまりに急激すぎました。
では、どうするか。答えは簡単です。待っていても人が来ないのなら、お坊さんが外に出ていけばいい。 最近、女川町のあちこちにある集会所でお茶会をやっていると聞けば、足を運ぶようにしています。といっても、おじいちゃん、おばあちゃんたちと他愛もない話をするだけなのですが……。お相手の宗派や、保福寺の檀家さんかどうかは関係ありません。まずは地域の人たちに私の顔を知ってもらう。何か困ったことがあっても、顔を知らないお坊さんに相談しようなんて思わないでしょう。身近に相談できる存在として認知してもらう。まずはそこから始めなければ、と動いているのです。
基幹産業さえ残れば人は残り、子どもも減らない
震災後、町はどう変化したのか。
尾浦から女川町中心部までは、自動車で約20分。尾浦にはスーパーはおろかコンビニや商店もないために、買い物をするためには女川町中心部に足を運ぶしかない。
高齢世帯が、生活の利便性を考えて仙台近郊や石巻に暮らす息子や娘を頼って、住み慣れた尾浦を離れるケースが増えたのではないだろうか。
八巻 もちろん、そういう方もいます。ただし、それは被災地について語る文脈において持ち出される、ひとつのイメージに過ぎません。
尾浦には高齢世帯が、町にたくさん残りました。それは能登半島地震の被災地でも同じだと思います。というのも、被災して住まいが破壊されたとしても、コミュニティは残っています。高齢者が知らない町に移り住んで、新たな人間関係を築き直せるのか。つくれる人もいるでしょうが、それはごくひと握り。そう考えると、昔から親しんだコミュニティに残りたいと考えるのは自然です。
通院や買い物には不便でも、尾浦で暮らし続ける人は少なくありません。なかには自動車の免許を返納したあとも尾浦に残る人もいます。質の高い生活を送る上で、大切なのは利便性よりも、コミュニティだとわかっているのかもしれません。
一方、仕事や教育を重視する若い世代では、尾浦を離れる動きが目立ちました。ただし尾浦の住民は、約9割が漁業や養殖業に従事しています。子どもの教育を優先させて尾浦を離れたとしても、職場は尾浦。だから若い世代では、女川町の中心部や、石巻市内でも女川町に近い地域に暮らしながらも、尾浦に毎日通うという生活をする人がほとんどです。
そうした傾向もあり、この10年を見ても、女川町全体で小学生の数はさほど減っていません。
私も子どもがいてPTAの役員を務めましたが、石巻や仙台の町中の小学校では1学年10人、15人という話を聞きますが、女川では毎年30人から40人が入学しています。子どもの数は、震災を機に一度は減りましたが、その後は横ばいです。その要因は、若い世代が女川の基幹産業である漁業や水産加工業に従事して、子育てをしているからなんです。

墓じまいの相談に来て子どもに叱られる高齢者
八巻さんは、「檀家さんにとって、お墓は帰ってくる場」と語っていたが、浜を離れた若い世代は、墓についてどのように受け止めているのだろうか。
八巻 意外に思えるかもしれませんが、中高年世代よりも若年層のほうが、お墓を大切にしているように思います。
「墓なんて腐るものではないし、1年に1回世話すれば維持できるんだから、そのままでいい」という人もいますし、尾浦を離れても、年に1度のイベントとして、旅行のついでに帰省し、お墓参りにくる子ども連れのご家族もいます。
新聞の記事やテレビCMなどで「墓じまい」を知り、「息子たちに迷惑をかけられない」といって相談に来るのは、むしろ高齢の方ばかりなんです。
「墓じまいをしたい」
そう切り出す檀家さんに対して、私は毎回こう問い返します。
「ご家族やお子さんたちと相談されましたか?」
奥さんにも伝えていない人もいますし、ご夫婦だけで決めて、自身の子どもたちには話していない場合もあります。
「迷惑をかけるから、子どもには相談できない」という檀家さんに、私がかける言葉は決まっています。
「一度、お帰りください。お子さんと話してから、いらしてください」
子どもに、墓じまいについて相談すると、こんな言葉を返されるそうです。
「何を言っているの?」「墓がなくなったらどうすんのや!」
たいていは、息子さん、娘さんに怒られたとバツが悪そうに報告してくれます。まれに、お子さんたちが墓じまいに理解を示すケースもあります。それはそれでいいと思っています。家族で話し合って互いに理解して、墓じまいをする。それは家族同士がつながっているということですから。
ただ、お墓が重荷になっている人がいるのもまた事実です。お盆とお彼岸には毎年必ずお墓参りしなくては、とお墓の管理に負担を感じている方に、こんな話をした経験があります。
1年に1回でも、2年に1回でも、都合のいいときにお寺に足を運んで、お墓に手を合わせてもらえればいいんです。石は、簡単にすたれません。もしも、お墓参りが難しいときは「行けないのでお願いします」という電話だけでもかまいません。心のどこかでお墓に心を寄せてもらえるだけで十分です。お墓の管理は私たちがしますから――と。
安心する檀家さんを見ているとお墓の存在の大きさを感じるのです。
震災法要はあえて3月11日の午前中に
避難所として被災者を支え、犠牲者を弔う場でもあった保福寺の住職として、八巻さんが大切にしているのが、毎年3月11日だ。保福寺が行う東日本大震災の法要は、毎年午前10時から。犠牲者の位牌を本尊の前にずらりと並べて供養する。それは、かつての被災者から、震災を経験していない世代に対して、災害の記憶を引き継ぐ日でもある。
八巻 3月11日の保福寺は、尾浦に残った人と離れた人が一堂に会する場になります。3月11日が平日だったとしても、参列者は毎年100人を超えます。150人も集まった年もあるんです。
午前中に法要を行っているのには、理由があります。震災が発生した3月11日午後2時46分には、それぞれが思い思いの場所で思い思いに過ごしてほしいんです。発生時刻が近いとどうしてもソワソワしてしまうでしょうから、その心を少しだけでもどうにかしてほしくて、震災翌年から変わらず、法要は午前10時から。その時間に、なかなか会えなくなってしまった人たちや古い友人との旧交を温めてもらえたなら上々なんです。
この数年で、参列する方々が代替わりしてきました。少し前まではお父さんが参列していたのが、震災時にはまだ子どもだった息子さんがお寺に来る。そんな姿を見て、若い人たちも3・11を自分のこととして受け止めているんだな、と感じます。
最近の法要には、かつての子どもたちが、震災後に生まれた子どもを連れてくるようにもなりました。
集落から人が去り、通夜や葬儀でお寺に集まる機会も減ってしまいましたが、それでも3月11日は、被災した人たちや、その子どもたちがお寺に集まってきてくれます。
ほどけそうになる人と人とのつながりを、ギュッと結び直す日が、3月11日なんです。だからこそ、私が生きている限り、3月11日の法要は続ける――そう決めています。
私は、震災で亡くなった人も、あの日子どもだった若者も、震災後に生まれた新しい世代も知っています。法要のたび、世代を超え、尾浦に縁がある人たちが、保福寺に集まってくる。その光景を前にすると、法要を続けてきて本当によかった、としみじみと思うんです。(了)
《人物紹介》

八巻英成(やまき・ひでなり)
1981(昭和56)年、宮城県生まれ。同県石巻市の曹洞宗寺院・洞仙寺の次男として生まれ、高校卒業後に上京し、芝浦工業大学を卒業。曹洞宗大本山の永平寺にて修行し、2007年より同県女川町尾浦の曹洞宗寺院・保福寺にて住職を務める。東日本大震災時に保福寺は、約70日間、避難所として機能。その後、女川地区のPTA活動に参加、民生委員も務めるなどし、震災後の寺院の運営、地域のコミュニティ形成に積極的に参画している。

