世俗とは違う評価軸・視点を持つための仏教その価値を伝えていきたいのです

大人も子供もゲームで遊べば、お寺のことや仏教のことに興味が持てるのではないか。そう考え、ゲーム開発に力を注ぐ向井真人副住職。お金や地位や社会的役割は大事だし、社会の中で生きる以上、迎合する必要があるが、同時に、現世の処世術にこだわらない視点がないと生き辛くなる――そうした話に共感できる日本人は多いだろう。時代が変わり、価値観が変わり、競争社会で勝利することが必ずしも好ましいことではなくなってきた。自分が持って生まれたものを受け入れられる人、心の声に素直に耳を傾けられる人のほうが、幸福感が上がり、結果的に人からの信頼も厚くなるのではないだろうか。社会人経験がないことに引け目があったという真人副住職の語りには、僧侶本来の謙虚な姿勢が滲む。

臨済宗妙心寺派 長光山 陽岳寺(東京都 江東区) 向井 真人 副住職

近年の日本人の心の問題の一つとして、幸福感・自己肯定感の低さが挙げられると思います。これについて宗教者として考えるところがあればお聞かせください。

日本社会とか資本主義とか、そうしたいわゆる世俗の評価軸・視点しか持っていないと、長い人生、いつか生きていくのが辛くなる時期が来ると思います。お金とか、健康とかはわかりやすい人生の目標になり得ますが、デフォルト(債務不履行)してしまうことだってあるでしょうし、いくら気を付けていても心身の健康を損なうことはあるでしょう。
ですからそれらとは違う評価軸・視点を持つことが必要です。世間とは異なる考え方・違う視点で物事を判断するよりどころとして、仏教は間違いなく、生きる支えになるのではないでしょうか。
日本社会にどんな事件が起こり、人々の価値観にどんな変化が起ったとしても、仏教的視点があると安心できます。仏教は中道と言って、現世の物事に囚われないようにする、という世界観に基づいているので、すべて範疇の外から考えられるのです。つまり、この不安定な時代を生きる日本人にとって身近でありながら違う視点を提供してくれる素晴らしいものだと言えます。だから仏教を薦める発信はずっと続けていきたいと思っています。

お寺で宇宙学 浄土双六で学ぶ仏教の世界観

そうした考え方を伝えていくのに、情報発信はどう工夫されていますか?

幸いにもゲームというコミュニケーションツールがあるので、できるだけ宗教色や思想色がないフラットな場所で、顔を出してリアルに触れ合う機会を増やしていくのが大事だと思っています。それをフォローするネット発信もいろいろやっています。
ホームページはもちろんですが、寺子屋ブッダが運営する「まち寺」も利用し、YouTube動画やSNSを利用した情報発信にも力を入れています。「縁なき衆生は度し難し(縁のない人を悟らせるのは難しい)」という言葉があり、特にネットの場合は、スパムとして受け取られる可能性もあるので、押し付けがましくならないよう注意していますが。(笑)
一般の人とのコミュニ―ケーションをどうとるかは、今後も大きな課題です。お葬式や法事の場では上下関係になってしまうので、そういう話はしにくいし、しても聞いてもらえませんから。

ゲーム会場ではいっしょに法話もされているわけですがリアクションはどうですか?

一応、感心はしてくれます。ネットでは「面白いことやってるね」と言ってもらえるし、批判を受けることはめったにありません。しかし、深く響いているとか、届いているとも感じません。もちろんバズったりすることもありません。
ちなみにお坊さん系のネット発信でバズるのは、お寺のウラ話とか、霊的な話です。ただ、3分ぐらいで「へー」と思わせるもののほとんどは、これまた3分ぐらいで忘れ去られます。客寄せネタとしてはアリですが(笑)

ゲーム開発のために仏典を研究

社会におけるお寺の存在意義が問われることが増えていますが、今後、寺院・僧侶はどんな社会的役割を果たし、人々にどんな影響を与えられるのか、ご意見をお聞かせください。

これからお寺の統廃合が行われていくと思いますが、臨済宗妙心寺派もそれを見据えて現役世代をリタイアした人に第2の人生として、お坊さんをやってみませんか、と働きかけています。一般の人もリタイアして初めて人生の本質が見えるところもあるでしょう。
やはりさっきも言ったように、仏教は世間とは違う視点を持ち、囚われない・こだわらない生き方を支えるもので、それをきちんと伝えるのが、お寺・僧侶の役割です。私たちはそれを自覚しておくべきだし、一般の人にはそういうところをお寺の存在意義として認めてほしいと思います。
たとえば子供がいじめられるから学校に行きたくないと言う時に「行かなくてもだいじょうぶだよ」と無責任に言うだけではダメなんです。それだけだと仏教が世間と違う視点でアドバイスできることにはなりません。
何が足りているとそうできるかというと、いいことをして、悪いことをしないという根本「諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさしゅうぜんぶぎょう)」という話がきちんとできるかどうかなんです。これは社会的なルールとかマナーの話ではなく、仏教的な話です。あとは戒律。いましめです。それらに基づき、社会のルールに則った上で、アウトロ―的なことを言えるというのが、仏教に携わる者の社会的役割なんだろうと思っています。

それは人間として何が善いことで、何が悪いことなのか、詳しいことはお坊さんに聞いてくださいと言うことでしょうか?

そうですね。結局、社会的な善悪は、その社会の特性・成り立ちによって変わってきてしまいます(例:資本主義社会における善悪と共産主義社会におけるそれとは異なる)。
それに対して人間として何が善か悪かというのは仏教でいろいろ言っているので、それに則って僧侶が話せば、それで救われる人がいると思います。

本記事はweb用の短縮版です。全編版は本誌にてお楽しみください。

お寺
2023.07.13