血縁に導かれてお坊さんになった兼業公務員僧

京都の嵐山に比べられるほど、豊かな自然に恵まれた埼玉県の嵐山町。
その杉山城跡の丘に立つ、天台宗「積善寺」の住職をつとめる新井尚田さんは、お坊さんとしてのおつとめのかたわら、市役所の職員という職業を持つ兼業僧侶である。父が僧侶でなかったことから、「跡取り」になる意識は濃くなかったという彼がなぜ、あえて積善寺を継いだのか? 
そのワケをじっくりと聞いていこう。

私の家系での僧侶の歴史は祖父の代で途絶えていました

代々、積善寺の住職をつとめる新井家の長男として生まれた尚田さんですが、お父さんは積善寺の住職ではなかったそうですね。そうなると、「お寺の跡取り」として期待されるようなことはなかったのでしょうか?

新井:そうですねぇ。今思うに、跡取りとして見られることがまったくなかったかと言えば、そうでもないというのが正直な感想です。
というのも、積善寺の21世住職をつとめた新井郷田という人が私の曽祖父にあたるんですが、その跡取りとなる小川町の大聖寺の住職であった祖父、純田が思わぬ医療事故で早世したこともあり、積善寺の跡取りのことや将来の心配ごとをつねづね子孫に語っていたそうなんです。その郷田の孫にあたるのが私の母で、婿入りした父もそのことに気をかけていたようです。
ただ、両親が結婚した昭和30年代当時、お寺は経済的に貧しかったものですから父は僧侶にならず、サラリーマンとして働きながら積善寺の境内整備をしたり、檀家様などとの近所づきあいを維持していました。
そんな両親の間に私が生まれたのが、昭和42年の12月のこと。郷田は、同じ年の1月に亡くなっていましたから私は曽祖父とニアミスで会うことはできなかったんですが、両親はきっと、私を跡取りにすることを意識したと思います。というのも、郷田の写真を見ると、容姿が私とそっくりなんです。

確かに郷田さんのお顔は、曾孫の尚田さんにそっくりですね!

新井:私が成長するにつれ、その容姿が曽祖父にどんどん似てくるのを見て、両親は血縁の結びつきの強さを意識していたのではないでしょうか。
とはいえ母は、学校の教師をしながらお寺づとめをしていた実の父である祖父の純田が早世して、その後は母子家庭で過酷な幼少時代を過ごした人でしたので、私にお寺を継いでほしいと積極的に言うことはありませんでした。もちろん、祖父や先祖様たちがどんな人だったのかという話はよく聞かされていましたし、私も自分のルーツに興味があったので、いろいろ質問したりしていましたけどね。

積善寺21 世住職の新井郷田師。嵐山町将軍沢「明光寺」、小川町奈良梨「普賢寺」や滑川町伊古「圓光寺」の住職を経て、積善寺の住職をつとめた

バブル世代の空気に逆らい「地元志向」の市役所に就職

大学卒業後、尚田さんは東松山市役所に就職されますが、これは尚田さんにとって、どんな選択だったのですか?

新井:職業選びの基準にしたのは、積善寺のある地元で働ける仕事ということ。
実際のところ、大学卒業時はまだバブルの時代でしたから、働き先の選択肢は無数にあったと言えるんですが、「お寺の跡取りになる」という気持ちもかすかにありましたし、世話になった両親のゆくゆくの老後の面倒を見るには、地元で働いたほうが都合がいいと考えたんです。

これまで市役所では、どんな仕事に携わってきたんですか?

新井:地方公務員ですから、3~4年のサイクルで異動があり、会計課や広報課など、さまざまな部署で働いてきましたが、いちばん長く在籍したのが人事課です。出たり入ったりしながら通算で11年くらい、人事の仕事をしました。人事課は、職員の人事異動を担当する部署ですから、いろいろな仕事を実地で経験し、いろいろな職員と交流しながら役所全体の仕事を理解する必要があるんですね。
人事課長になったころに手掛けたのが、平成26(2014)年度の職員採用をするにあたって「子育て経験枠」を設ける仕事でした。
当時は、高齢化とともに少子化が社会問題として顕在化し始めたころです。女性の労働力率を示したM字カーブの折れ線グラフで、女性の結婚・出産期にあたるM字の谷が深くなっていることを政府が示したことを覚えてらっしゃる方も多いかもしれません。子育てのためにいったん職場を離れてしまうと、復帰するのがむずかしい状況があったわけです。
そこで、市の対策として設けたのが「子育て経験枠」です。子育てのために職場を離れたことをマイナスととらえるのではなく、子育ての経験をプラスのスキルと解釈して、子育てした後に職場復帰しようとする女性を積極的に採用しようと考えたのです。地方自治体としては全国初の取り組みということで話題となり、NHKなどのメディアの取材を受けたりしました。

政府が「一億総活躍社会」を目指して働き方改革を掲げたのは令和元年のことです。それに5年も先んじて地方自治体から声をあげたのは意味のあることでしたね。

新井:そうですね。私自身、思った以上の反響を受けて、大きな達成感がありました。

市役所で働く尚田さん。お坊さんであることは自ら名乗ってはいないが、付きあいの長い同僚には周知の事実だという。

32歳にして僧侶を目指す。その理由とは?

そんな多忙なお役所勤めをされていた尚田さんは32歳のとき、総本山の比叡山延暦寺で修行をして僧侶になることを目指します。どんなきっかけがあったのですか?

新井:仕事の面では、先ほど述べたような意義のある仕事に携わっていましたが、プライベートでは25歳のときに結婚して男女2人の子を授かり、充実した生活を送っていました。子どもは年子だったので上の子は私、下の子は妻と手分けして、24時間体制で面倒を見るという、忙しい日々でしたけどね。
ただ、多くの人が経験することだと思いますが、子を持つようになると、悩みというか、将来についての不安を感じるようになります。「子どもたちは、このまま素直に育ってくれるんだろうか」とか、「寺の近所に購入した、自宅の住宅ローンを返し続けられるか」とか。
また、子どもと過ごす時間が長いと、よいところ、悪いところが自分とよく似ていることに気づきます。私とよく似ていた先祖の僧侶たちは、私をお坊さんにしたかっただろうなとも思いました。
そんな考えを巡らせているとき、ふと「仏教」に対する関心が高まってきたのです。菩提心が芽生えたとか、そういう大袈裟な心の変化ではなく、普通の人たちが日常の悩みから離れるために趣味でストレス発散をしたり、お酒を飲んだりするのと同じことです。私の場合、代々の先祖がお坊さんだったこともあって、いつかは仏教のことを学んでみたいという気持ちがあったことが大きいのかもしれません。ですから、天台宗の総本山の比叡山延暦寺で修行して、身をもって仏教を知るということは私にとって、自然な選択でした。

市役所勤務という仕事のかたわら、修行するのは可能なんですか?

新井:当時は土日に勤務する部署で働いていたので代休が溜まっていまして、それに有休とゴールデンウィークの休日を足せば、修行にあてられるくらいの休みがなんとか確保できました。時代も当時は今ほど厳しくなく、ゆるやかだったこと、理解ある上司や職場に恵まれたことも修行に行けた要因です。
僧侶の資格をとるための修行期間は、60日。そのかわり、その間はずっと比叡山にこもりきりの修行になります。

比叡山延暦寺行院での60 日間の修行の様子。密教修行の間、神聖な存在である行者は体に刃物をあてることができないため、頭髪やヒゲはもちろん、爪も伸ばしっぱなしで行に集中したという

36歳にして積善寺24世住職に。心が引き締まるのを感じた

具体的には、どんな修行をされたんですか?

新井天台宗では、仏の教えを「顕教」と「密教」のふたつに分類します。私的な解釈ですが、顕教は仏が衆生の性質に応じて理解しやすく説かれたお経を中心とする教えで、密教は人間の力ではどうすることもできないことを仏の神通力の加護によって解決してもらおうという教えです。
ですから修行のほうも前半と後半で分かれていて、最初の30日は天台僧としての基礎的な教義や儀式作法を習得する「前行」、後半の30日は「四度加行」といって密教修行を中心とした行を履修します。四度加行では、諸仏のご真言を何千遍も唱え、印の結び方の伝法を受けながら、仏と自己の一体化を目指すんですが、修行の仕上げとして護摩行をするんです。午前2時に起床し、冷水を浴びて身を清め、護摩の火の前でひたすらに真言を唱える厳しい行です。
このとき私は32歳でしたが、それでも体力的にキツくて、早いうちに修行を始めておいてよかったなと思いました。

その後、僧侶の資格を得るには、どんな手続きが必要なんですか?

新井:そもそも修行に入るには、師僧となる人の許可が必要なんですが、修行を終えた後は入にゅうだんかんじょう壇灌頂などの必要な手続きを経て正式に僧侶の資格を得ることになります。
私の師をつとめたくれたのが積善寺の22世住職で、小川町「大聖寺」住職の早川賢田師だったんですが、賢田師は、私の曽祖父である新井郷田に師事された方でもありました。もちろん、身内びいきをするような方ではなく、むしろ厳しい目で見てくださっていたので私も真剣に修行に励みました。
すべての手続きを経て、僧侶資格を正式にいただいたのが33歳のとき。積善寺の24世住職を拝命したのが36歳のときで、このときは心が引き締まるものを感じました。

本記事はweb用の短縮版です。全編版は本誌にてお楽しみください。

記事の全文は月刊仏事 9月号に掲載されています

掲載記事

お寺
2022.09.13