曹洞宗 誦経山 四萬部寺(埼玉県秩父市)
秩父札所三十四ヶ所第一番。人々が巡礼用品一式を揃え、巡礼に旅立つ寺。この四萬部寺の丹羽隆浩副住職は、自らの悩み・精神的な苦しみと向き合ってきた平成生まれの“普通の若者”である。その若者が秩父の歴史をもとに、未来を担う同世代、さらに若い世代へ向けて、霊場の魅力、仏教の秘められた力を説き、これからの生き方をともに発見しようと動き出している。
江戸からの巡礼の始まりの寺として番付変更
四萬部寺は札所三十四ヶ所のなかでもともとは第二十四番だった。それが江戸時代になって江戸から川越街道を通って訪れる人が増えたため、最もアクセスしやすい寺として一番札所に変わったという。
西武秩父駅から出ているバスの停留所名も「札所一番」。紅葉、雪、桜、青葉……山々の美しい自然に包まれ、道路を挟んだ向かいには昔からの巡礼宿を改装した古民家風の旅籠もある。巡礼に出発する気分を高めるには絶好の環境といえるだろう。
付近の道で学校帰りの子どもたちとすれ違うと、「こんにちは」と挨拶してくれる。明るい声が澄んだ空気のなかにこだまする。秩父の巡礼路は日本人が郷愁とともに思い描く里山のイメージに包まれている。
永平寺の修行よりも厳しい俗世間の試練
丹羽隆浩副住職もかつては、そんな地元の小中学校に通う元気な子どもたちのひとりだった。この寺で2人の姉、2人の弟とともに生れ育ったが、長男だったので後継ぎになれと言い聞かされていた。しかし子どもの頃は、僧侶という仕事にあまりよい感情が抱けなかったという。
「自分の中で仏教への信仰心は育たず、関係ないことだと思っていました。祖父から永平寺の厳しい修行の話を聞いて、そんなところには絶対に行きたくないなとも思っていましたね。でも祖父の死をきっかけに、祖父がよく話してくれた永平寺の修行がどんなものなのかをこの身体で感じたいと思い直し、ようやく決心がつきました」
大学卒業後、山深い永平寺での修行を積んで曹洞宗の僧侶になった。ところが、山を下りて日常の世界に帰ってきた若僧には、永平寺の修行よりも厳しい試練が待っていた。
それは俗世間における人間関係のこじれや、これからの自分の生き方に対する多くの不安であった。そのことによって隆浩副住職は、精神的に著しく不安定な状態に陥っていく。こんな状態でこの先、僧侶の仕事が務まるのか? そんな耐え難い辛苦に自問自答する日々が続く。部屋からまったく出られない時期もあったという。こんな自分を仏様はどう救ってくれるというのか? 仏教に対する不信感もあったが、最後にすがろうと思ったのはやはり仏教だった。
高齢者や子どもと向き合う第2の修行
僧侶である以上、自分の心の問題は仏教に向き合って解決するしかない。そう気づいた隆浩副住職は、都内の曹洞宗総合研究センターで改めて仏教を学び直す決心をする。
「『仏教』という呼び方が誤解を招くのかもしれません。かつては『仏道』といったんです。宗教というよりも、生き方のいろいろな智慧を学び、実践していくのが仏道です。自分が知りたかった仏教はこれなのだと再認識できました」
布教の研修なので、座学のほか、高齢者や子どもを相手にお釈迦様の教えをわかりやすく説くための練習をした。施設に出向いて法話を語り、保育園・幼稚園などで劇を見せる。法話も劇の台本も自分や仲間と作るオリジナル作品。そうした第2の修行を終えて四萬部寺に戻った。副住職としての仕事は、そこから始まったといっていいのかもしれない。
「心の問題」に向き合うための巡礼を広める
巡礼の出発点である四萬部寺は発願の寺。願いを明らかにして旅じたくをする場所であるため、巡礼全体のガイドも行っており、隆浩副住職はその世話役を務めている。また、秩父札所連合会(一般社団法人)の理事としても活動している。
境内の納経所では装束や納経帳をはじめ、巡礼に必要な用品を販売。お守りも訪れる人たちの人気を集め、その売上が四萬部寺の存続を支える大きな柱にもなっている。というのもこの寺は檀家制度とは無縁のため、寄付に頼るわけにはいかないからだ。
祖父や父は教員を兼業していたが、隆浩副住職はたとえ運営が厳しくても寺務と連合会の仕事に集中し、四萬部寺、および、秩父巡礼の情報を広め、精神の治癒となるこの聖なる旅をもっと多くの人に体験してほしいという。
現代において社会問題となっている「心の問題」(自死、死別の悲嘆、生きづらさなど)。それに対して、“巡礼の始まりの寺”からどんなアプローチができるのか、その可能性を探りたいという思いが、隆浩副住職の行動の源になっている。