東京西部唯一の寺町で3世代の「招き猫」と親しみやすい寺づくりを目指す

世田谷区の烏山寺町にある乗満寺は、この界隈でも少し異色の存在。境内で暮らす、いわゆる「招き猫」がお寺の敷居を低くしている。遠藤賢順住職は先代から引き継ぎ就任してすぐ、もろにコロナ禍の影響を受けて思うような活動ができなかったという。今年後半は心機一転、ポストコロナの時代に繋がる活動計画を練っている。東京西部で唯一の寺町として、知る人ぞ知る烏山寺町が、関東における新しいお寺情報・仏教情報の発信基地となる。

遠藤賢順住職

ネコは開運の使者?

豪徳寺の招き猫

招き猫と言えば、同じ世田谷区には本家本元の豪徳寺がある。徳川幕府に仕えた名門・井伊家ゆかりの逸話をもとに幸運を呼ぶ招き猫伝説が生まれ、今では都内でも指折りの観光スポット、パワースポットとなっている。小田急線と東急世田谷線の駅界隈も「招き猫の街」として賑わっており、経済効果も絶大。まさにネコさまさまだ。

乗満寺の「ねこ茶房」

一方、こちらの乗満寺の場合は境内で飼っているうちに自然と知られるようになったとのこと。坊守がインスタグラムにUPした写真が人気となり、ホームページ刷新の際にも同様の写真を載せてみたら、可愛くておしゃれだと特に若い女性を惹きつけた。
それに応じて月に1回、「ねこ茶房」(予約制・定員4名)を開くようになり、参拝して住職の法話を聞いていただいた上で、お寺の中で猫たちと遊べる機会を設けている。コロナ禍で集会が止められ、活動が停止してしまった時期に、猫たちはささやかな開運の使者として乗満寺の広報活動に貢献してくれたのだ。
取材の日は、いつも境内を散歩している長老ネコのみーちゃん(雄)が出迎えてくれた。19歳(人間なら90代)になる超高齢者だが、鳴き声や歩き方を見る限り、年齢の割にはとても元気で健康そうだ。

みーちゃん
乗満寺の猫たち

乗満寺と烏山寺町の歴史

北陸~大阪~京都~静岡~東京の流転の軌跡

「私は15代目の住職になります」という遠藤賢順住職。
一口に15代というが、1代あたりの在職期間が平均で30年とすれば、すでに400年を優に超える歴史がある。乗満寺には寺の変遷を示す文書が残されており、住職はそれを見せてくれた。
創建年月は不明だが、もとを辿ると加賀国(現・石川県)にあった「林松寺」というお寺に行きつく。林松寺は最初、真言宗のお寺として始まったが、蓮如上人の北陸巡錫のときに当時の住職が蓮如の教えに帰依し、浄土真宗に転宗したと伝えられる。
その後、安土桃山時代の戦乱の嵐に巻き込まれて転居を余儀なくされえたのか、摂津国(現・大阪府)、山城国(現・京都府)などを転々とし、一時は廃寺寸前まで追い込まれたようだ。
しかし、天正年間(1573年-1593年)になって、野條受閑という名の医師の協力のもと、明泉法師が中興した。その後、駿河国(現・静岡県)に移転し、徳川家康の江戸入府に伴って、江戸車坂(現・東京都台東区東上野付近)に移転。その頃の4代目住職が「野條山乗満寺」に名を改めた。

本堂内

関東大震災を機に上野から世田谷へ

厳しい流転の歴史を耐えて生き残った乗満寺は、江戸時代は幕臣の檀家を多く抱え、明治・大正以降も由緒あるお寺として親しまれてきた。ところが、1923年(大正12年)9月、関東大震災に襲われ倒壊し、再び存続の危機に立たされた。
翌1924年(大正13年)に現在の烏山に移転。記録によると、この年、引っ越してきたのは乗満寺を含めて4ヵ寺。いわば烏山寺町を興した一番手のグループである。現在の本堂の骨組みとなった材木には「大正14年建立」とはっきりと記されている。
遠藤家はじつは遅れて昭和3年にこの隣に引っ越してきた入楽寺の住職だったが、移転を機に乗満寺の住職もやってくれないかと頼まれ、当初は双方の寺の住職を兼任していたという。

烏山寺町の成り立ち

烏山寺町は、乗満寺同様、関東大震災で被災した東京東部のお寺が集まって大正末期から昭和初期にかけて形成された。数は全部で26ヵ寺。いずれも浅草、築地、本所、荒川、麻布、三田などにあった由緒の深いお寺ばかりだ。
お寺が移転してくる前、この一帯は東京府北多摩郡千歳村の村はずれの一画で、民家はほとんどなく雑木林や畑作地、桑畑、ススキの生い茂る荒地などが広がっていた。現在の寺院通り沿いに建つ人家はわずかに2,3軒程度。1キロほど先にある千歳烏山駅に京王線の電車が出入りする様子を望むことができたという。
移転地として選ばれたのは、広大な土地とそれを取り巻く自然の豊かさからだが、関東大震災の前から計画されていた東京都の都市基盤の整備とも密接に関わっているようだ。

人が集う開かれたお寺へのリ・スタート

盛大な花まつり

最後に多門寺が加わり、現在の26ヵ寺になったのが戦後の1949年(昭和24年)。以来、宗派の異なる寺同士でも協力して寺町を活性化しようと「寺町仏教会」をつくり、年に1回、花まつりの日(4月8日)に近い土日に白象の山車を繰り出す、盛大なイベントを行うようになった。
特に賢順住職の祖父の時代——昭和の時期は、駅前の商店会とも協力し、商店街の中心にある烏山区民センターまで1キロにわたって子どもたちが白象の山車を引いて練り歩き、この地域の風物詩となっていた。
「小さかったので記憶があいまいですが、私も参加した覚えがあります。そのお祭りのために甲州街道を一時的に通行止めにするんです」
賢順住職はその頃の賑やかさを懐かしそうに振り返る。

報恩講でキャンドルナイト

昭和時代の盛大さは失われたものの、烏山寺町の花まつりはずっと続けられていた。しかし、2020年からこの3年間はコロナ禍のため開催中止に。2018年に父から乗満寺を任された賢順住職も結局これといった活動ができないままになっており、少し悔しい思いを抱いているという。
やっとコロナが落ち着いたこれからが住職としての本格的スタート。その手始めとして、現在、11月の報恩講に合わせて手作りのアートキャンドルを使った「キャンドルナイト」を企画している。
「妻(坊守)がとても活動的で、そうしたアート系の方面にネットワークを持っているんです。彼女の協力で、いくつか商店が出店の話も進んでいるので、ぜひ成功させたいですね」と語る賢順住職。
寺町の他のお寺にも彼に近い年代の住職が増えてきている。若手は昔のように宗派のしきたりにこだわることが少ない。もしかしたらこれを機に新しいつながり、新しい寺町がスタートするかもしれない。都会の中の、日常から離れた聖域のような烏山寺町には、門戸を開けばいろいろな人たちが興味を持って訪れるだろう。26のお寺が、乗満寺の謳う「みんなのお寺」になれば、仏教のイメージも変わっていくはずだ。

記事の全文は月刊仏事 8月号に掲載されています

掲載記事

お寺
2022.08.04