分解・再塗装を前提に作られている、長野県飯山市の「飯山仏壇」。飯山仏壇事業協同組合副理事長の有限会社山﨑本店代表取締役の山﨑隆寛氏に、飯山仏壇の特色や同組合の取り組みについて聞いた。
仏壇の“エシカル性”に注目した大学生
長野県県民文化部くらし安全・消費生活課が提供しているインターネトサイト『長野県版エシカル消費 Ethical Style Nagano』に、『ここからエシカルMAP』というコンテンツがある。県内を北信・東信・中信・南信の4エリアに分け、エシカル消費に取り組む店舗や事業者を紹介するものだ。エシカルとは直訳では「倫理的」の意だが、その意図はSDGsに限りなく近似している。このMAPにおいても、SDGsの17の目標のどれに該当するかを掲示する表記もある。
『ここからエシカルMAP』は現在、長野県立大学ソーシャルイノベーション創出センターの事業の一環として、事業に関連するゼミの学生たちが、店舗や事業者を選定しインタビューをして、順次更新しているものだという。このMAPの中で現在唯一、ご供養に関する事業として紹介されているのが、飯山仏壇事業協同組合だ。
なぜ、飯山仏壇が学生たちの目に留まったのか。同大に問い合わせたところ、飯山仏壇事業協同組合を掲載した学生たちはすでに卒業したとみられ、当時の県担当者も不明であり、理由や経緯について直接話を聞くことはできなかった。だが、MAPでの記述を読むと、仏壇が長寿命化作業「おせんたく」を前提とした作りであること、各工程において伝統工芸士が活躍していることが、若者の関心をとらえた理由だと推察できる。さらにSDGsとしては、目標12「つくる責任つかう責任」と、目標17「パートナーシップで目標を達成しよう」に該当すると示している。
“雪国の小京都”が育んだ仏壇産業
飯山仏壇とその現状については、同協同組合副理事長の山﨑隆寛氏(有限会社山﨑本店代表取締役)に話を聞くことができた。
雪国の小京都と呼ばれることもある飯山市は、長野県内でも特に雪深い地域だが、古来交通の要衝として栄え、戦国時代以降は城下町としての機能を整えてきた。のちに飯山仏壇と呼ばれるようになる仏壇の製造は、江戸時代には産業化が始まっていたようだ。明治に入り、鉄道の開通によって物流拠点としての機能が薄れると、飯山仏壇は重要な地場産業として発展した。1975(昭和50)年には、経済産業大臣により「伝統的工芸品」の指定を受けている。
現在もJR飯山線に並走して、「仏壇通り」と呼ばれる界隈がある。飯山城のすぐ西にあたり、およそ300メートルの通りに10軒あまりの仏壇店が並んでいるのだ。市内の仏壇関係事業従事者は100人前後。最多の頃でも人口約4万人だったという飯山市の都市規模を考えると、仏壇業は産業の重要な地位を占め、同時に地域住民にとっても仏壇が親しい存在であろうことは想像に難くない。
「ヒノキ、スギ、マツ類等仏壇造りに適した材木産地であったこと、豪雪地帯のため屋内作業による産業が重視されたこと、漆塗装に適切な湿度が得られる気候条件だったことは、飯山仏壇を一大産業へと引き上げた主要因だったと思います。そして、現在もそうなのですが、仏教信仰に篤い地域であることは、飯山仏壇の発展に大きくかかわっていることと思います」(山﨑氏)