「遊び」を通じて教えを広めるボードゲーム坊主

臨済宗妙心寺派 陽岳寺

向井真人副住職

東京の下町、深川で約400 年の歴史を持つ臨済宗妙心寺派の陽岳寺。
副住職をつとめる向井真人さんは、仏教やお寺をテーマにしたボードゲームを自作し、「遊び」を通じた啓蒙活動を行っているユニークな僧侶だ。
2015年から「年にひとつ以上、新作ゲームを作る」ことを目標に、10タイトル以上のオリジナルのボードゲームを制作してきた。
活動を始めたきっかけから今後のことなどについて、じっくり話を聞いてみよう。

臨済宗妙心寺派 陽岳寺 向井真人副住職

「お坊さんになる」ということは私にとって自然な選択でした

向井さんは陽岳寺の住職のご長男なんですね?

そうです。4歳下の弟がいまして、私は長男です。ただし、親から「お寺の跡取りになりなさい」と言われたことはなかったし、仏教について勉強することを求められたりもしませんでした。お寺に2人の男子が産まれたわけですから、親たちにもあまり切迫感がなかったのかもしれませんね。
もっとも、陽岳寺にお墓のある檀家さんの中には、私の顔を見るたび、「私のときは読経をよろしくね」と声をかけられる方もいらっしゃって、漠然と跡取りになることを意識してはいました。
住まいがお寺と隣接していましたから、住職として父がどのようなお勤めをしているかは、おのずと伝わってきます。父は、葬儀や法要でお経をよむとき、お経の内容を現代の日本語でわかりやすく解説していまして、檀家さんに喜ばれていました。そんなお手本となる人が身近にいたおかげで、お坊さんになるという道を素直に選択できたのだと思います。

具体的にはどんな手続きを経て、お坊さんになるんですか?

いくつかの方法があるんですが、私は一番スタンダードな道、専門修行道場に入門して修行することを選択しました。
というのも、私は臆病な性格から、新しいことに挑戦することに尻込みしがちなところがあったからです。例えて言うなら、泳げない自分を奮い立たせるため、自ら水の中に飛び込むようなものです。死なないために必死にもがくうち、いつの間にか泳ぎが身についている。私にとって僧侶になるための修行は、そんなイメージでした。
道場によって修行の内容には多少の違いがありますが、私が入門した鎌倉の円覚寺では、朝の読経にはじまり、坐禅と托鉢、それから畑仕事と薪割りなどの規則正しい生活を送る中でお坊さんになるための知識や心構えを身につけていきます。仏教、特に禅宗では何気ない日常を重んじます。悟りを目指して何か特別なことをするわけではなく、日々の暮らしの中に仏心が光り輝いていることに気づいていくのです。
道場での修行は、最短で1年、私のように大学卒業後に入門したケースでは3年間というのが平均的な修行期間なんですが、私はそれでも物足りなくて、4ヵ月ほど修行を延長させていただきました。

鎌倉・円覚寺では横田南嶺老師の教えを受けた。「修行道場での日々は、本当に得がたい経験を積ませていただきました」と向井さん。

道場を出てからの修行が本当の修行

「自分はお坊さんになった」という自覚は、いつごろ芽生えましたか?

その質問には、いろいろな答え方があると思うんですが、「いつ」と特定して語るならば、修行道場に入ったとき、と言えるかもしれません。
臨済宗では、修行道場に入門する際、「庭詰め」、「旦過詰め」といったしきたりがあります。朝一番でお寺を訪ね、入門のための願書を提出するんですが、すんなり受けとってもらえることはなく、「今、道場は満員なので他の道場へ行きなさい」と、追い返されてしまうのです。でも、言葉通りにお寺を去るのではなく、玄関の床に手をついて、その上に額をのせて、ちょうど土下座をするような姿勢で居座るのが作法なんですね。これが「庭詰め」で、食事とトイレに行くとき以外は、ずっと姿勢を崩さず、2日ほど玄関先で過ごします。
その後、ようやく玄関に近い狭い部屋に入ることが許されますが、入れるのはその部屋だけで、そこで1日中、坐禅をして過ごします。これを「旦過詰め」といいます。

こうしたしきたりは、お坊さんになるための覚悟がどれほどのものか、試すためのものなんですね?

ええ、その通りです。ただ、「自分はお坊さんになった」という自覚は、そこで確かなものになったわけではなく、つねに揺らいでいきます。
例えば、修行を通じて「自分は悟りを得た」という確信があったとしても、つねに「それは嘘の悟りではないのか」という目で検証しなければなりません。禅宗では「釈迦も達磨も修行中」とよく言いますが、悟った後の修行(これを「悟ごご後の修行」といいます)が重んじられるのです。
私自身、修行道場を出るとき、「道場を出てからの修行が本当の修行なんだよ」という言葉を師からいただきましたが、実際、その通りだなぁと思うことがよくあります。道場から離れて俗世間で暮らすようになると、まだ小さい子どもが言うことを聞かずに駄々をこねてイライラさせられたりすることもあります。そのとき、私の「お坊さんとしての自覚」はもろく崩れやすいものになります。私のお坊さんとしての自覚は、つねに揺らいでいるのです。

なんだか、答えづらい質問をしてしまったようで申し訳ありません。

とんでもない。とてもいい質問でした。ありがとうございます。

最初に作ったボードゲームの意外なほどの高評価

3年4カ月の修行を終えて、陽岳寺の副住職になった向井さんは、坐禅会やヨガ体験イベントなど、お寺の活性化につながるイベントを企画しますが、その活動はやがて、「ボードゲームで遊ぶ会」につながっていきます。どんなきっかけがあったのですか?

直接的には、私が社会経験なしにお坊さんになってしまったという「負い目」から始まっています。
昭和24(1949)年生まれの私の父は、大学生時代は学生運動を経験し、卒業後に修行道場へ。そして企業に就職しています。そんな父をお手本として考えると、私の社会経験はあまりにも貧弱で、世間知らずのように感じていました。そこで、自分なりに知見を広げたいとの思いから、お坊さんではない、さまざまな職業に就いている方をお寺の本堂に招き、ひとつのテーマについて話し合う機会を設けたんです。その中に、ボードゲームを趣味にしている方がいて、ゲーミフィジャパンの石神康秀さんを紹介していただきました。
石神さんは、ゲームで遊ぶ楽しさを、企業の研修やチームの課題解決などに取り入れる「ゲーミフィケーション」という手法を開発している方で、その考えが当時の私の「仏教のこと、それからお寺のことをもっと多くの人に知ってほしい」という問題意識につながったのです。

最初に作ったボードゲームは、『御朱印あつめ』ですね。どんな発想から生まれたのですか?

キリスト教の聖書をテーマにした『バイブルハンター』というゲームに出会ったことが大きいです。プレイヤーが聖書に登場する預言者、使徒などの人物カードを召喚して、世界に散らばった失われた聖書カードを獲得していくカードゲームなんですが、遊んでみると聖書の登場人物とか言葉が自然に頭に入ってくるんです。
ならば、その仏教版をつくれないだろうかと考えて生まれたのが『御朱印あつめ』です。プレイヤーは、お寺の参拝者となり、写経を納め、御朱印を集めていきます。御朱印には、如来、観音、菩薩、その他の仏さまの名前が書かれていて、その組み合わせや枚数で点数を競うのです。
例えば、釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩のカードが揃っていれば10点、同じ種類の仏さまのカードだけが並んでいる場合は10点を獲得できます。中には「焼き肉定食」とか「クマ出没」などのはずれカードもあるんですが、はずれだけを集めれば20点にもなり、一発逆転も狙えます。

『御朱印あつめ』。写経(右下)をお寺に納めて御朱印を集めていく。「おみくじ」を引くと、1点の観音カードが3点になる(末吉)などのボーナス得点がもらえる

なるほど。ゲームで遊びながら仏さまの名前や教えなどについての知識が自然と身につくわけですね。反響はいかがでしたか?

「ゲームマーケット」といって、ボードゲームなどのアナログゲームの展示即売会があるんですが、2015年に出展したところ、イベント価格6000円という値段にもかかわらず100個の在庫が即完売になりました。自分でも驚くほどの反響でした。そこで、年にひとつ、仏教をテーマにした新しいボードゲームを作っていくことを決めて、お寺の本堂に子どもや大人を集めた「ボードゲームで遊ぶ会」を月に1回開催することにしました。

ゲームのアイデアをまとめたり、仕様書や説明書を制作するのはお寺のお勤めが終わった後。「でも、あまり無理せず日をまたがないように心掛けています」と向井さん

「仏教の冒涜だ」というクレームにも丁寧に対応

こうして、2016年に生まれたのが第2弾の『檀家-DANKA-』ですね。遊び方を説明していただけますか?

プレイヤーはお寺の住職となり、町の住民たち100人に自分のお寺のファン「檀家」となってもらい、その檀家数を競うゲームです。
ファンを集める方法は、「修行」、「接待」、「お参り」などのお坊さんの仕事が記された「お勤めサイコロ」を振って、さまざまな経験から徳を積んでいくのです。ただ、徳を積むといっても、プレーヤーが最初にやらなければならないのは檀家からのお布施集めです。秘仏のご開帳や法話の会などを開催して人を集め、お金を稼がないと永代供養墓なども整えられませんし、お堂の整備や駐車場の拡充もできないからです。
とはいえ、最終的には檀家数を競うゲームですから、お金を稼ぐだけではゲームに勝てません。そこで、ボード上に鎮座している大仏を護持するお坊さんになるための政治的な争いに勝利することも必要になっていきます。

『檀家-DANKA-』。イベント価格9000円。ゲームの終了条件は2つ。住人100人すべてがお寺の檀家になったとき、プレーヤーたちが「修行」をまったくしなくなったとき

説明を聞くだけでも、ゲームのおもしろさが伝わってきます。でも、「仏教をゲームにするなんて、けしからん」というクレームが来たりはしませんか?

お坊さんからのクレームは、これまで1度もありませんでしたが、ユーザーの方からそう言われたことは何度かあります。電話やメールでのお問い合わせに受け答えするんですが、できるだけ丁寧に説明するようにしています。最終的には、納得していただくまで説明しています。

職業としてのお坊さんだけでなく、生き方としてのお坊さんでありたい

2015年から現在まで、制作したボードゲームは10タイトル以上に及びます。その活動は、今後も続くのでしょうか?

もちろんです。お坊さんになるための修行はずっと続いているというお話をしましたが、修行がインプットだとすると、ボードゲーム作りはアウトプットです。その両輪をうまくまわしていくことが大切だと思います。仏教とかお寺というと、葬式などの悲しいイメージを持っている方が多いのではないかと思いますが、「遊び」の要素を取り入れることでお寺をもっと身近に感じていただきたいと思っています。

第3弾の『WAになって語ろう』。イベント価格2000円。家族や親戚、友人が集まったとき、「きらいだったけどたべられるようになったものは?」、「あなたが大切にしている日にちは何月何日ですか?」といったカードの質問に答えてお互いのパーソナリティを確認し、共有できるゲーム

最後に質問です。向井さんはこうした活動を通じて、どんなお坊さんになりたいと思っていますか?

そうですねぇ。お坊さんというのは、私の職業であるわけですが、同時に生き方でもあると思っています。では、自分がお坊さんとして生きているかと問えば、まだまだ修行中の身だと言わざるを得ません。そして、その修行は生涯続くのだと思います。そう考えてみると、答えが出るのは臨終のときなのかもしれません。人生の最後に我が道を振り返ったとき、「自分はお坊さんとして生きたんだな」と言えるようなお坊さんになっていたいですね。

近年は、けん玉を活用した『ケンカードゲーム』、『Kendama Card Battle』、『ケンダマンザイ』といったボードゲームを手掛けている。「けん玉は、意識を集中させて大技を達成するというところに心を整える作用があると思っています」と向井さん

月刊仏事 9月号に掲載されています

掲載記事

お寺
2021.09.27