自ら苦悩を乗りこえたマインドフルネス僧

藤井隆英さんは、2012年よりzafuの代表であり、身心堂を主宰し、数々の講演やワークショップ、企業研修などを行っている僧侶である。副住職をつとめる実家のお寺、愛知県豊橋市の一月院は檀家のいないお寺のため、二足のわらじが当たり前の環境だった。
その立場を利用し、自ら生み出したメソッド「禅セラピー」を広めている。そこに至るまでのストーリーに、じっくり耳を傾けてみよう。

一月院 藤井隆英副住職

お坊さんになりたくなかった私を変えたのは、一冊の本だった

愛知県豊橋市にあるお寺、一月院の長男に生まれた隆英さんですが、お坊さんになることについては積極的になれなかったそうですね。

そうですね。高校を卒業して北海道大学の水産学部に進んだのは、大好きなクジラを研究したかったからですが、親のいる愛知県からできるだけ遠くに身を置いて、僧侶にされることから逃れたいと思ったからでした。もしかすると、クジラを好きになったのも、一種の逃避行動だったかもしれません。
というのも、高校時代の私は「自分はいかに生きるべきか。真の幸せとは何か?」という問いに思い悩んで数カ月ほど不登校になったことがあるほど、こじらせた青春時代を過ごしました。「海に還った哺乳類」であるクジラに興味を持ったのは、まさにその時期に出会った本、C・W・ニコルさんの小説『勇魚』に影響されてのことでした。
ですから大学時代は勉強のかたわら、西洋哲学や心理学などの本を読んだりして答えを模索しました。ところが、何冊読んでも手応えがないのです。どうやらその先には答えがなさそうだぞという気がして、それまでとは毛色の違う本を読もうと手にとったのが、のちに師事することになる臨済宗の僧侶、樺島勝徳師の著書『和尚さんが病気にならない理由(わけ)―知られざる健康法のすべて』(ベストセラーズワニブックス)でした。

お坊さんが書いた本なのに、なぜ手をとってみる気になったのですか?

実は私、小学4年生のとき、運動会のために真面目にフラフープの練習を頑張り過ぎてギックリ腰になって以来の腰痛持ちで、本をパラパラとめくるうち、何か役に立ちそうな気がしたのです。「禅僧が書いた本」であることは、大して意識していませんでした。
この本には、禅の作法と東洋医学などの手法を用いながら体の歪みを矯正し、自己治癒力を引き出すさまざまな方法が紹介されていました。実践してみると、頭の中で理屈をこねくりまわしていたときには得られなかった手応えを感じたんです。
つまり、心の問題は体の問題であり、体の問題は心の問題でもあるということ。両者を一体として考えないと、すべての悩みは解消しないということに気づいたのです。
こうして、身体的には地元の愛知県を脱出して北海道に移り、精神的には西洋哲学を経由して日本の禅という、自分としてはいちばん遠ざけていたはずの出発点に、まるで円を描くかのようにして戻ってきたわけです。

修行道場に入った年、大震災、オウム事件が起こった

ずいぶん、途方もない遠回りでしたね?

おっしゃる通りです。当時は大学院に進学して1年目のころで、地元にいる父とも「修士2年目には休学して、曹洞宗の僧侶になるための修行をする」という約束をしていたので、自分のすぐ足もとに、ベストなタイミングで進みたい道が用意されていることに驚きました。親が敷いた人生のレールから逃げてきたのに、そのときは喜んでそのレールに乗りたいと望んでいたのですから。
私が修行の場として選んだのは、岩手県の正法寺という修行道場でした。曹洞宗の修行道場は本山だけでなく、全国に20ヵ所くらいありますが、大学に近い場所を選んだわけです。曹洞宗では100日間籠もって修行をしたあと、最低半年で僧侶資格の大きな段階を修了することができます。結果的にはこの道場で、のべ10ヵ月を過ごすことになりますが。
正法寺の修行道場は、修行僧が15人程度の小規模な道場でした。曹洞宗のお寺の長男で高校を卒業したばかりの青年から、定年退職を機に出家を決意した壮年の人から、お寺の娘さんと結婚後に婿入りして住職を目指す中年の人などがいて、そんなバラエティに富んだ仲間とともに道場での暮らしをスタートしたのです。

隆英さんにとって、修行生活はどんな日々でしたか?

修行に入ったのは1995年の3月でした。実はこの年は、1月17日に阪神・淡路大震災、3月20日にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こりました。
道場にある小さなテレビにて、上役の方に許してもらった少しの時間だけ視聴させていただくことで、その後の日本社会に大きな影響を与える2つの出来事についての情報がわずかではありましたが入ってきてはいました。震災の報道を知るにつれ、自分が修行道場という閉鎖空間に身を置いて、被災者の人たちに何もできないことにもどかしさを感じましたし、サリン事件については、自分が大学院で理系の研究をしていたこともあって、同じ世代の研究者が容疑者となっていることに愕然とし、「信仰」について深く考えさせられました。自分の修行の道は、本当に正しい道なのか? もしかしたら、自分もオウムの人たちのようになっていたのではないか?と。

プレハブで寝泊まりして、被災地支援を始めたころの仲間たち。ほとんどが大学生で、お坊さんは隆英さんのみだった

10年に及んだ阪神大震災の被災地支援

隆英さんはその後、SVA、シャンティ国際ボランティア会(当時は曹洞宗国際ボランティア会)の活動に参加したのをきっかけに阪神大震災の被災地の支援活動を始めますが、それは2005年までの10年もの長期間に及びました。どんな支援を行っていたのですか?

最初に行ったのが神戸市長田区の御蔵菅原という、地震と火事で甚大な被害を受けたところで、見渡す限りの焼け野原を見たときの衝撃は、今でも忘れられません。
すでに震災から10ヵ月が過ぎていたのでライフラインはある程度復旧していましたが、取り残された市営住宅や仮設住宅を戸別訪問して、世間話や悩み相談などに応じる傾聴ボランティアを一貫して行っていました。そのほかには、地域住民の方々の交流イベントや、曹洞宗の僧侶として慰霊祭を定期的に開催していました。
それから、夜間中学校で読み書きを教わっていた高齢者の方々が、学校が被災してなくなってしまったので困っているという話を聞いて、「ひまわりの会」というプロジェクトを立ち上げ、神戸市に識字学級の設立の働きかけをしていた時期もあります。「ひまわりの会」は、私が離れたあとも、地元のボランティアの方々が活動を継続しています。実は、修行道場から離れて実社会に戻ったとき、地下鉄サリン事件の影響なのか、「宗教」に対する社会的アレルギーを感じることが多かったのです。ただ、SVAの設立には曹洞宗が関わっていたにもかかわらず、被災地のプレハブの建物を拠点に支援活動をしていたメンバーは僧侶でない人がほとんどでしたので、戸別訪問先では、自分がお坊さんであることを積極的にアピールすることはありませんでした。
自分からそのことを進んで表明するようになったのは、大阪の専門学校に通って整体師の資格を取得し、接骨院でのアルバイト経験を積んだことがきっかけでした。整体を学んだのは、もちろん僧侶を志すきっかけとなった樺島師の影響です。学んだ後、被災地に設けられた休憩所に「お坊さんの整体やさん」という看板を掲げて、施術をしながら傾聴することにしたんです。
もともと私たちボランティアは被災地の外からやってきた「よそ者」ですから、生活を共にしている地元の人同士では気兼ねして言えないような悩みを告白してくれる方も多かったのですが、「私は整体師の資格も持っているのですけど、体の具合が悪いところはありませんか?」という相談アイテムがひとつ加わることによって、さらに会話もしやすくなりました。

関西でのボランティア活動の10年間は、大阪のお寺での勤務や、接骨院のアルバイトなどの収入で生活していたそうですが、その経験を通じて隆英さんの中で、どんな変化がありましたか?

青春時代の「自分はいかに生きるべきか。真の幸せとは何か?」という苦悩は、この10年間でいつの間にかなくなっていました。
つまり、「信仰」とは、自分だけが幸せになるための手段なのではなくて、自分以外の多くの人の幸せに貢献することで達成に近づいていくものだということに気づいたのです。そして、その歩みは、少しずつ前進しながら生涯続いていくのだ、と。

阪神・淡路大震災での慰霊祭の様子

記事の全文は月刊仏事 6月号に掲載されています

掲載記事

お寺
2022.06.23