仏教界も時代の変化を味方にすべき

浄土真宗大谷派 光圓寺(富山・砺波市)

市川峻住職

法話慣れした住職のように流暢に話すわけでない。起伏の多い人生を歩んできたことを反映しているのか、語り口はひどく凸凹している。けれどもそれがかえってわかりやすく、形容しがたいリアリティがある。それは厳しい現実に向き合ってきたからこそ生まれるものだろう。社会や業界に対する意見も明瞭で言葉を濁すことがない。住職としては若年世代だが、将来へ向けて、いずれも耳を傾けるべき重要な発言が続いた。

光圓寺 市川峻住職

お寺の在り方を考え直す時代

少子高齢化をはじめ、AIやロボットの普及の兆しがあったり、「持続可能」な社会への移行が強調されたり、近年はめまぐるしく社会が変動していますが、そんな中、宗教者としてどんなことを考えておられますか?

時代は変わります。変わっていくのはこの世の理です。そこは受け入れないといけません。抵抗して、これを守らなきゃとがんばるとすごく無理が生じるので、時代の変化に対して自分はどう変わらなくてはいけないかを考えるべきです。
日本は高度経済成長以来、豊かな社会を築いてきましたが、これ以上現状維持するのは無理でしょう。その現状をひたすら維持しようという発想自体が間違っています。ひとりひとりがどうありたいのか、というヴィジョンを持って、この先、どのようになりたいのか考えなくてはいけません。そして、それを絶対に政治とか社会とか時代とかのせいにしないこと。あくまでひとりひとりの責任だと思います。そこで自分に何ができるのかを考えて、初めて自分と向き合うことになるのだと思います。

今後、社会におけるお寺の存在意義が危ぶまれ、議論されることも増えていますが、将来的に寺院·僧侶はどんな社会的役割を果たせるのか、ご意見をお聞かせください。

お寺の経営を中心に考えているのは価値がないし、そういうお寺は潰れるしかありません。私はむしろ寺族の生活のために経営されているお寺は、なくなったほうがいいと考えています。
お寺というものがなぜあるのかと言えば、仏教を広めるためですよね? そこに仏の教えという教育があるということです。それを求める人には自分に不満、苦しみとか、満たされていない思いがあるはずです。そういう人に対するメッセージをちゃんと伝えられないお寺は無用な存在だと思います。
「何十年かに一度ですが、お寺の修復をしなくてはいけないので寄付お願いします」と言うのに、ただあるだけで何の働きもしていない「チンチン、なんまいだ、ごちそうさま」では本末転倒です。お寺の存在が人の経済を苦しめているということになります。それならばちゃんとした働きができるお寺だけが残ればいいのです。
情報技術が発達した今なら、オンラインでいくらでも相談に応じたり、メッセージを伝えることができます。昔は交通も情報伝達も不便だったので、日本各地の至るところにお寺がありましたが、今はもうそんな必要はなくなりました。実際のリアルなお寺は、その市なり県なりに一ヵ寺あれば十分足りるでしょう。そこに役割を果たすのに必要な数の僧侶がいればいいのだと思います。

では、お寺の文化財的な価値についてはどう思われますか?

文化財的に良いとこはいっぱいありますが、それをわざわざ守る必要はありません。「守っている」「守らなければ」と言っている時点で、もう社会的に危ない。そもそも必要性が希薄だから維持が出来ず、守らなきゃという発想になるわけで、もうそれだけで人々の負担として認識されているという証明になるのではないでしょうか。

寺院の運営を任された若い僧侶などに対して、アドバイスがあればお話ください。

目的を持つことです。生活のために住職になるという人もいるかと思いますが、そんな人に対しては、あなたは信徒さんにとっても、業界にとっても邪魔で迷惑な存在でしかないのではと問いたいです。
人に話をしたい、寄り添いたいと言うならそれだけでもいい。ちゃんと目的を持つこと。そしてどうすればその目的に近づけるか目標を立てて、いま自分ができることに着目してがんばってほしいです。

跡継ぎとしてやらなくてはならないという人もいますよね?

やりたくなければやらないほうがいいです。継がせる立場から言えば、子供がやらないと言うなら、やる気のある養子を取ればいいのではないでしょうか。

葬儀の心を取りもどす

これからの葬儀· 供養の在り方について、ご意見があればお聞かせください。

形じゃない、ご供養というところに力を入れたいです。現代のお葬式は、半ば慣習化しており、決まった流れ・段取りがあってといった単なる約束事になっています。それ自体が悪いわけではありませんが、その流れはどういう理由があってそうなっているのか、意味合いをよく考えた上で取り組むことが大事だと思います。
たとえば家族葬です。葬儀社の中には家族葬だと(ご遺族も自分たちも)負担が軽くなる、といった考え方で行っていると思いますが、そういう葬儀社は、直葬が増えたことなどによって潰れています。それは形だけでやっているから、と私には見えます。その形でなくてはならない理由を、ご遺族が理解して納得できなければ、お葬式は必要ないものになってしまう。つまり、心をないがしろにした結果、いまの現状があるのです。
ご遺族が「他の方にご迷惑が掛かるから、うちは家族葬にします」というのは、表面的な言い訳に過ぎません。実際のところは、葬儀費用が高いこともありますが、人とのつながり・関りが煩わしいからです。と言うと、ネガティブに捉えられると思いますが、悪いことばかりではありません。あまり望ましくないつながり、いわゆるしがらみも多く、悩まされるのは嫌だという人が大半ですから。

かつてはそうしたしがらみも含めて、人と人とのつながりがあったわけですね?

だから大勢お葬式に来たのです。さらに昔に遡ると、粋な心遣いもありました。もともとお葬式に来る弔問客はお香をお供えしていましたが、忘れた時に「お香をお借りしますね」とお香代を置いていくことがあったのです。お察しのようにそれがお香典の始まりです。
お葬式にはお金が掛かる。だからお香をわざと忘れて弔問し、お金を置いていって助けてあげよう――そんな粋な計らいにみんな共感し、自然と広がって、今のお香典というシステムができたそうです。
かつては人と人との関りをとても大切にしたお葬式の形がありました。しかし、現代ではそんな経緯も忘れ去られ、心を無視したお葬式をやっています。変に悲しみを煽ったりするお葬式は不必要だと思います。もっとシンプルでいい。この人、ああだったよね、こうだったよねといった今生での思い出だけに終始することなく、もっと心の深いところで死後の世界――仏の世界と向き合うのが、本来のお葬式の在り方ではないかと思います。

光圓寺では「寺院葬」もご提案されていますね?

シンプルで簡素ですが、良い式ができますので、ぜひご検討してみてください。この地域は昔からの本家・分家のしきたりなどで、お葬式の席次――誰が誰の上座で、どこに誰が坐るかといったことにひどくこだわります。
葬儀ホールならその点、あまり気にせずにすみ、様々な負担を負ってくれます。そのため、20年ほど前から葬儀社さんが葬儀ホールを建てて行うのが主流になってきました。席次にこだわる風習も消えつつあり、お参りの人数も減少傾向にあるので、人によっては寺院葬が適していると根気強く訴えていきたいと思っています。

葬儀社、石材店、仏壇店、終活関係者など、儀供養業界·エンディング業界の人たちに対して、ご意見や提言があればお聞かせください。

もっとお寺と交流してほしいと思います。大切な人を亡くしてしまった人に寄り添う仕事という意味では同じ業界なので。それぞれのリソースを持ち寄って、寄り添う人のために力を合わせられるといいのではないかと思います。
どうしてもお互いに職域の境界線を引いて、利益や権利を主張し合うことになりがちですが、それはどちらにもメリットになりません。今は協力し合ってなんぼの時代です。いかに他の専門家と協力できるかを考えながら仕事をしたほうが、それぞれの力を発揮できるのではないかと思っています。

冬は豪雪地帯 雪かきをする住職

月刊仏事 12月号に掲載されています

掲載記事

お寺
2021.12.09