生まれは昭和11年、育ちは品川・中延の長屋。あの立川談志に「毒蝮」と名付けられ、『ウルトラマン』から『笑点』まで、数々の名番組で大活躍。生粋の江戸っ子である母に育てられた彼いわく、「うちは日蓮宗。南無妙法蓮華経と団扇太鼓が賑やかだった」。そんな毒蝮三太夫が語る両親の死と葬儀、談志の墓、そして輪廻の話――。(文:樺山美夏 写真:江森康之)

“毒舌”が人気の90歳、デビューは「ウルトラマン」
高齢者のことを愛情を込めて「ジジイ」「ババア」と呼ぶ“毒舌”が人気の毒蝮三太夫さんは、2026年3月31日に90歳を迎えた。デビュー当時は『ウルトラマン』(TBS系)の隊員役などで俳優として活躍し、『笑点』(日本テレビ系)で座布団運びをしていた1968(昭和43)年、司会をしていた立川談志さんの助言で現在の芸名に改名。その翌年からパーソナリティを務めてきたラジオ番組『ミュージックプレゼント』(TBSラジオ)は今年58年目を迎える。著書『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』(2020年、学研プラス)では、口は悪いが人に愛された父親と母親の生と死の記録を。『70歳からの人生相談』(2023年、文春新書)では、高齢者のご意見番として切れ味鋭いアドバイスを送っている。そのざっくばらんな物言いの奥には、関東大震災と東京大空襲を生き延びた両親から受け継いだ、他人を慈しむ心と弔いの記憶がある。
団扇太鼓と読経がBGMの長屋暮らし
毒蝮三太夫(以下、毒蝮) 俺のおやじは大工で、口より先に拳固が出たけど、家族以外の人を笑わせるのは好きだった。おふくろは芝で生まれて神田で育った生粋の江戸っ子で、日蓮宗の信心が深かった。お互いよく憎まれ口を叩いて「ゴリおやじ」と「たぬきババア」って呼び合ってたよ。
俺が子どもの頃は、品川区の中延にあった木造長屋に住んでいて、立派な「御宝前」があったよ。うちは仏壇のことを「御宝前」と呼んで、おふくろがお経を 上げてお供え物を欠かさなかった。俺も学校に行く前と帰ったときには必ず手を合わせて「チーン」ってやらされたね。何か食べるときも「仏さまが先だよ」がおふくろの口癖で、まずお供えをして、しばらく経ってからお下がりを頂いた。
日蓮宗の「南無妙法蓮華経」はにぎやかなんだ。団扇太鼓を“てけつくてけてけつくてけ、どどーんどん”って鳴らして、子どもの頃はふざけて歌ったりしていたよ。あのリズムは今でも身体に沁みついてるね。岡呑海っていう日蓮宗のお坊さんもうちに習字を教えにきていて、寺子屋みたいだった。「呑む」という字に「海」で岡呑海。すごい名前だろ(笑)。おふくろは10月にある池上本門寺(東京都大田区)のお会式にも必ず行って、お籠もりして泊まってくることもあった。
だけど、おふくろは毎年、なぜかご先祖とは別の人の墓参りもしていて、必ず俺も一緒に連れていかれたんだよ。おやじが一緒に来なかったのは、その墓があるのが、おふくろが最初に結婚した人が眠る(東京都台東区)谷中の長運寺だったからなんだよな。神田で製本の仕事をしていたその本田さんという人は、関東大震災の後、家族を連れて出稼ぎにいった大阪で肺の病を患って亡くなった。女手ひとつで息子2人を育てることになったおふくろは、大阪でおやじと出会って一緒になり、俺が生まれた。その後、1936(昭和11)年に東京へ戻ってきたとき、おふくろは本田さんの骨も運んで長運寺に埋めたってわけだ。「本田さんはいい男だったよ」とよくおふくろは話していたけど、本当だろうね。腹違いの兄2人も芸術家肌のいい男だったから。
俺が大人になってから、長運寺の住職に聞いた話によると、本田さんの供養で読経していたとき、おふくろの脇で当時5歳くらいだった俺がやたらと泣きわめいたらしい。おふくろは「うるさいわョ」と言って、法要のときに叩く鐘の中に俺を入れてしまった。狭くて暗くて、そりゃ怖かったと思うよ。しばらくしたら泣きやんで、読経が済んだところで「そら、終わったよ」とおふくろが俺を抱き上げた。すると、俺のズボンから生温かい水が流れ出てきたらしい。鐘の中で小便を漏らしたんだ(笑)。「あれにはあきれたぞ」と住職に笑いながら言われたよ。
おふくろの信心は歳を取るにつれて深くなり、晩年には日蓮宗の総本山・身延山の久遠寺まで参拝しに行った。珍しくおやじが一緒についていったんだけど、奥の院の七面山に登詣するとき、おふくろはもうだいぶ弱っていたから、おやじが縄を巻いて引っ張りながら登ったらしい。七面山は標高2千メートルある険しい山坂だからね。おやじは普段、おふくろの信心をさんざん馬鹿にしていたから、あとでご近所さんからそのことを聞いて、俺はびっくりしたよ。大したもんだね。

おふくろの葬儀で住職を怒らせた父
毒蝮さんの母は1973(昭和48)年に75歳で、4つ年下の父は1980(昭和55)年に79歳で他界した。2度の葬儀には、どちらも「ゴリおやじ」の名を語り草にするエピソードが残っている。
毒蝮 おやじは、人を驚かしたり馬鹿なことを言ったりするが好きな男でね。おふくろが肺を悪くして(埼玉県)所沢の病院に入院したときも、医者に「このへんにいい火葬場はないですか」って聞いたらしい。これから療養しなきゃってときに(笑)。「お父さん、変わった方ですね」ってあとで先生に言われたよ。
おふくろが布団で寝たまま逝ったときも、「たぬきババアが起きねェんだよ」とおやじが電話してきて、「おいババア、起きろ!」って怒鳴ってた。俺は青ざめたね。おふくろの葬式は暑い8月、桐ヶ谷の斎場(東京都品川区)で。そこでも親父は住職に、「暑いから、読経を短くしてさっさと終わらせろ」と言って怒らせたんだ。外で並んでいる参列者へのおやじなりの気遣いだったんだろうけどよ。腹が立った住職はおやじを睨みつけて、わざと長く読経してやったって。しかも、おふくろの棺が火葬場に運ばれたときなんて、「よぉーく焼けよ。飛び起きるようじゃいけねぇ」とおやじが言って、火葬場の人をびっくりさせてた。
おふくろはおふくろで、生前に自分で長運寺の墓地を買っていたんだ。最初のだんなである本田さんのお墓から10メートルも離れていないところに。しっかりしてるよね。
おやじはおやじで、おふくろの3回忌が過ぎた頃に、勝手に家と土地を売っぱらって、年下の美人さんと一緒に暮らし始めたんだ。その人は、俺のラジオ番組『ミュージックプレゼント』のファンで、中継していた温泉施設に見にきてくれたらしい。たまたまおやじも持病の湯治でそこに滞在していて2人は出会った。だから、俺がキューピット役なんだ(笑)。おやじが具合を悪くして入院するまで同棲は3年ほど続いて、ずいぶん楽しそうだったよ。
おやじは79歳で亡くなった。葬式が終わると、おやじの大工仲間や後輩たちが「形見に道具を分けてほしい」と、たくさん言ってきた。だからほとんど形見分けをして、俺の手許には玄翁(大型のかなづち)しか残っていない。おやじもおふくろも、それぞれ勝手気ままに自分の好きなように生きて最期を迎えた。おふくろは結局、おやじと本田さんと3人で同じ寺で眠っているわけだから、「珍しいことですよ」と住職に言われたよ。

立川談志の戒名と弔辞の流儀
毒蝮さんはこれまで数多くの著名人の葬儀に参列し、弔辞も捧げてきた。中でも思い出深いのは、2011(平成23)年に他界した、「毒蝮」の名づけ親でもある立川談志さんだ。
毒蝮 談志はね、生前に自分で「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」って戒名をつけてたんだ。「雲黒斎」と書いて「うんこくさい」(笑)。粋でも格好よくもなくて、ただただ下品で笑わせる。あいつらしいよ。でもこの戒名のせいで、家族がどんなお寺に頼んで回っても、みんな断られちゃった。この戒名じゃ、うちでは受け入れられない、ってね。やっと引き受けてくれたのが浄心寺(本郷さくら霊園/東京都文京区)。縁もゆかりもないお寺が受け入れてくれた。あいつは最後まで自分流を通したわけだ。「自分勝手に生きて、自分勝手な戒名をつけて、自分勝手を認めてくれるお寺に埋めてもらった」って言いたそうだよな(笑)。
ある落語家の葬儀で、ある大師匠が俺の脇に来て、こう耳打ちしたことがある。「死んでほしいやつが死なないで、死んでほしくないやつが先に死んじゃったよ」って。正直だよね。談志を見送ったときも、「死んでほしくないやつが先に死んじゃった」と思ったね。談志のことをこうして人に話すと、やはり懐かしくなる。死んだ人のことを思い出して、誰かに話す。それも線香や花を供えるのと同じ立派な供養なんだよ。 弔辞もいろいろあるけど、長いのがいちばん困るね。思い出に浸りすぎちゃう人がいるから、聞いてるほうはつまらない。俺が弔辞を頼まれたときは、故人よりも会葬者に向かって喋るようにしてるんだ。こういう人でしたよね、って話しながら参列者に思い出してもらって、一緒に故人を偲ぶ。それが本当の弔いだと思ってる。次は自分の番だってことも忘れちゃいけないんだよ。


“毒蝮三太夫以前”、石井伊吉としての青年時代の写真と30代の頃のさわやかなカット(まむしプロダクション提供)。
「終活」よりも「愁活」のほうがいいね
毒蝮さんは「終活」という言葉が気に入らないという。かねてから「愁活」という字を使うべきだと言い続けているその理由とは。
毒蝮 終活の「終」の字は、「もう終わりですよ、用なしですよ、あなたはもう死に近づいてますよ」っていうふうに相手に思わせがちでしょ? 言われた方も気分がよろしくない。だから俺は、「愁活」にした方がいいってよく話してる。ご愁傷様の「愁」は、尊厳と落ち着きのある字だと思うよ。「赤秋」という言葉もいいね。秋は紅葉で赤くなる。青春があるなら赤秋があっていいんだよ。落ち葉だけど色がついている。枯れ果てたんじゃなくて、土に還って新しい命を育てるわけだ。死ぬというのは、何もかもが終わって見放されてしまうんじゃないんだよ。落ち葉が土に戻ってまた新しい植物を育てるように、人も死んだら新しい命に生まれ変わる。日蓮宗のおふくろのそばで育ってきたから、輪廻というのはわかる気がするね。
自分の墓のことは、今カミさんと話し合いの最中なんだ。おやじとおふくろがいる長運寺で永代供養にするか、カミさんの姉さんの墓がある静岡の富士霊園にするか、まだ決まってない。富士霊園は桜名所100選のひとつで、桜が綺麗でね。親のような存在で毒舌の師でもあった小林桂樹さんもそこに入ってる。桂樹さんは群馬県の沼田というところの出で、金剛院というお寺の檀家だったんだ。警察官だったお父さんもそのお寺に入ったんだけど、遠くてお参りにいけないからっていうんで、ご先祖の骨を全部まとめて富士霊園に移したんだよ。そしたら娘さんや息子さん、お孫さんたちがお参りに行きやすくなった。だから遠くて誰も行けないお墓をそのままにしておくより、思い切って遺族の近くに移したほうが供養になるね。墓じまいも、遺族がなんらかの形で供養できればいいと思う。
今の時代、お寺も大変だ。檀家はどんどん減るわ、墓参りには誰も来ないわで、住職もアルバイトしないとやっていけなくなっている。誰かがちゃんと墓参りできるかどうかが大事で、遠くて行けないじゃ意味がない。お参りしてくれる人がいて初めて、供養は成り立つからね。遺族がいなければ、もちろん永代供養でもいいんだよ。谷中の長運寺に眠るおふくろは、前のだんなとおやじの両方に見守られているんだから、墓を移しても永代供養にしたとしても、まあどっちにしたって幸せだろうね。 そのおふくろはいつも俺に、「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように」と言っていた。敬愛していた医師の日野原重明先生は、生前、俺にこう言ってくださったことがある。「あなたは『話すこと』でお年寄りを喜ばせ、元気にする、立派な名医なんです」。この俺のしゃべりの原点は、おやじとおふくろにあるんだよ。(了)
《ゲスト紹介》
蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)
1936年、大阪生まれ。本名・石井伊吉。タレント、俳優。『ウルトラマン』(TBS系)などの特撮作品などに出演後、テレビ・映画、ラジオで活躍。1969年から続くラジオ番組『ミュージックプレゼント』(TBSラジオ)は半世紀超の長寿人気番組。聖徳大学客員教授として介護教育にも携わる。著書に『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』(学研プラス)、『70歳からの人生相談』(文春新書)、『愛し、愛され。』(玉袋筋太郎さんとの共著、KADOKAWA)など。
卒寿を迎え、本でも毒舌!
毒蝮三太夫の最近著作3冊
『愛し、愛され。』
(玉袋筋太郎さんとの共著、KADOKAWA、2026年発売)
コンプライアンス至上主義の波が社会の隅々に及び、人間関係が希薄になった令和の時代に、卒寿を目前にした毒蝮三太夫と、還暦を目前にした玉袋筋太郎が、最強のタッグを組んだ一冊。毒蝮の「毒」と玉袋の「粋」が融合し、人間関係を豊かにする示唆を与えてくれる。キーワードは「愛すれば、愛される」。激動の時代に、本当に大切なものを問い直す対話録。
『70歳からの人生相談』
(文春新書、2023年発売)
50年以上にわたりTBSラジオ『ミュージックプレゼント』で街角から生中継を続け、1万軒以上の店や会社を訪ねて多くの高齢者の声に耳を傾けてきた毒蝮さん。本書はウェブメディア『介護ポストセブン』で「ジジイやババアとちゃんと話す技術」を指南してきた内容をまとめた一冊。表面的な慰めや励ましを一切排した、本質的な効いたアドバイスが並んでいる。
『たぬきババアとゴリおやじ
俺とおやじとおふくろの昭和物語』
(学研プラス、2020年発売)
親友の立川談志に「お前の親を見てるとお前が上品に見える」と言わしめた、破天荒な父と信心深い母。関東大震災、東京大空襲、戦後の闇市など激動の昭和をたくましく生き抜いた毒蝮さん一家の半生を綴ったファミリーヒストリー。庶民の生きる知恵、家族の大切さ、貧しさの美しさが、笑いと涙と共に浮かび上がる。






