1975年に「なごり雪」が大ヒットしたシンガーソングライターのイルカさんは、“家族愛”の人だ。初恋の相手だった夫との結婚後、義父母を東京に呼びよせ、2人を看取った。20年間にわたって病と戦った夫も看取った。眠るように亡くなった実母も看取った。そして2021年、実父を看取った。“両家共同の墓”に対して実父が残した“最後の言葉”とは?家族愛と自宅葬の、半世紀にわたる物語。(文:樺山美夏 写真:西田周平)

「なごり雪」が大ヒット 地方ツアーの最中に自宅で逝った義父
デビュー55周年を迎えた今もなお全国で歌い続けているシンガーソングライターのイルカさん。ニッポン放送のラジオ番組「イルカのミュージックハーモニー」も今年35年目を迎えた。1975年に大ヒットした「なごり雪」(伊勢正三作詩・作曲)は、イルカさんが21歳のときに結婚した音楽プロデューサー・神部和夫さんの説得により生まれた代表曲だ。その後も「雨の物語」「海岸通」「サラダの国から来た娘」など、夫婦二人三脚で数々のヒット曲を世に送り出した。
しかし、和夫さんは1986年頃から体調を崩し始め、その後パーキンソン病と判明、20年以上の闘病生活を経て、なごり雪の季節に59歳で旅立った。義理の両親も、夫も、長寿をまっとうした自分の両親も、ともに自宅葬で送り出したイルカさんにとって、介護と看取りと弔いは常に身近にあった。
イルカ(以下、イルカ) 大阪万博があった1970年、当時19歳だった私が付き合った初恋の相手が夫でした。彼とは最初から結婚しようと話していたので、2人で万博に行く途中、京都の夫の実家を訪ねたんです。そのときから義母にはすごくかわいがってもらいました。義父は警察署長だった人で、職を退いてから脳梗塞で倒れて外出はできず自宅で静かに暮らしていました。21歳で結婚して、翌年から義父母を東京に呼び寄せて同居を始めたとき、お義父さんはほとんど寝たきりの状態。でも、お互い寅年生まれなのですぐに距離が縮まって、私によく昔話を聞かせてくれました。お酒が好きな人で、真面目なお義母さんが1週間に1度だけ計量カップで測って出すお酒を、「おいしいですね」とちびりちびり味わいながら嬉しそうに飲んでいましたね。
「なごり雪」をリリースした1975年、私たち夫婦が地方ツアーに出ている最中に、お義父さんは自宅で息を引き取りました。主治医から「そろそろ危ないかもしれない」と聞いてはいたんですけど、いつもそう言われていたから「今度も大丈夫だろう」と深刻に受け止めなかったんです。地方の宿泊先で訃報を受けたときは、死に目に会えなかったことを申し訳なく思いましたね。
葬儀は、同居していた板橋区の2LDKのマンションの和室で執り行いました。義父が警察にいた頃なら大きなお葬式をしたと思いますけど、もう過去のお付き合いは断っていましたから、2人の義兄夫婦と私たち夫婦だけの家族葬で。私はまだ20代前半でしたから、「お葬式はこういうふうにやるんだ……」と見ているだけで、義理の兄たちがすべて整えていました。
お坊さんは、夫の家の菩提寺がある岡山の津山から来てもらいました。でもお墓は、お義母さんが「岡山までお墓参りに行かれないから」と、所沢の霊園を生前に用意していたんです。彼女は本当にきっちりした人で。恩給でやりくりしながら家計簿をつけ、無駄遣いひとつしませんでした。お墓のことも、私たちが知らないところでぜんぶ準備していたんですよ。

義母が繰り返した「どんなときも家族仲よく」の言葉
1978年にひとり息子の冬馬さんが誕生し、都内に一軒家を新築した。仲良しだった義母が亡くなったのは、冬馬さんが小学3年生になった夏だった。
イルカ お義母さんは病院が嫌いだったんですけど、お腹が痛いと言い出したので診てもらったら腸のがんでした。でも当時はがん告知はしない時代でしたから、先生が「盲腸を切りましょう」と本人に話をしてくださって。私たちも盲腸のつもりで口裏を合わせて手術に踏み切ったんです。でも結局、1カ月も経たないうちにそのまま病院で亡くなってしまいましたね。
自宅葬をするために葬儀屋さんにすぐ連絡したら、なんでも貸し出してくださって助かりましたね。喪主は夫で、私は葬儀の演出を担当して、お花が好きだったお義母さんの部屋に祭壇を作って、かわいい花をたくさん飾りました。
今でも忘れられないのは、葬儀の前夜、当時9歳だった息子の姿が見えなくなって。それで探したら、お義母さんの横に寝て漫画を読んでいたんですよ。まだ人の死が理解できない息子にしてみれば、大好きなお祖母ちゃんの横でゴロゴロするのはなんら不思議なことじゃなかったんでしょうね。息子に「おばあちゃんのお顔をなでなでしてあげて」と言うと、なでてくれて、お義母さんの顔がどんどんいいお顔になって……。お義母さんも向こうで嬉しかったんじゃないかな。
お義母さんは生前、夕食のたびに「私の万が一のときは」とよく話す方でした。「兄たちのお嫁さんはみんな体が大きくてサイズが合わないから、私の着物はあなたがぜんぶ着てちょうだい」って私に言ってきたり、ご自分の身じまいの話が多かった。けれど、何度も繰り返し言われたのは「どんなことがあっても、家族兄弟仲よくお付き合いを続けてね」ということ。夫の神部家のことは、もはや嫁の私がいちばんよく知っているんじゃないかっていうくらい、毎晩のように話を聞かされました。
そんなお義母さんの言葉を思い出す出来事が、5〜6年前にあったんです。いちばん上の義兄の娘で、私が結婚したときにはまだ小学校6年生だった姪が、突然手紙をくれたんです。義兄夫婦が亡くなった後、津山にあった実家の遺品整理をしていたら、勲章が出てきたと。それは義父が警察官として天皇陛下からいただいたもので、義父が亡くなったときに長兄が「僕が長男だから預かる」と言って持っていったものでした。「これご存じですか?」と姪に聞かれたから、そんな経緯をすべて伝えました。そんなことがあってから以降、彼女は私のコンサートに来てくれるようになって、一緒にお墓参りにも行くようになりました。
津山のご親戚からは毎年、菩提寺の銀杏が送られてくるんですよ。私は自分のオリジナルTシャツをお返しに送って、コンサートで津山に行くたびにお墓参りもしています。お義父さんの勲章のおかげで、お義母さんが望んだ“縁”ってものが世代を超えてつながって嬉しいなって、いつも思っていますね。
パーキンソン病の夫の闘病では、自害させない事が“任務”
義母を見送って数年後、夫の和夫さんに異変が現れた。手の震え、歩行のもつれ……。特定まで3年がかかり、下された診断はパーキンソン病。当時、和夫さんはまだ30代後半である。それから、約20年にわたる闘病生活が始まった。
イルカ 義母が亡くなって2年ほど経った頃、夫の体に異変が起きました。パーキンソン病だと診断されてから、夫はずっと「死にたい」と言っていた。それは本心なんだろうと感じたので、一緒に寝ているとき、私も巻き添えで殺されても仕方がないな、と思っていました。やるならやればいい、夫婦になったからには、それも運命だと。でも、この人はそんなバカじゃないだろうな、と思ったりもして。彼は、横でいびきをかいて寝ていましたけど(笑)。
ただ、自害だけは絶対にさせたくなかったんです。それが私のいちばんの任務だと決めて、毎日自分に言い聞かせていたのは、1日1回ずつ「笑い、楽しい、おいしい」を彼と共有すること。それで「今日はまあいいか」と思ってもらって、生き続けてほしかった。息子もまだ小さかったですし、両親が暗い顔をしていたら、子どもはつらいに決まっていますから。
息子の中学受験の時期が、夫が自宅療養している時期と重なったのは、今思うと幸運でした。元気だった頃の夫は夜中の4時に帰ってくるような人で、家にいたためしがなかった。それが病気で家にずっといるようになったので、息子に「勉強のことはぜんぶお父さんに相談しなさい」って言ってました。それからは、父子でああだこうだ言いながら、勉強や受験のことを一緒に進めていましたね。夫にも、「息子にできることをやってあげられてよかったね」と言って。
私が明るく夫を支え続けることができたのは、来世を信じているからかもしれません。この世で苦労するのは、きっと来世にいいことがあるからなんだと、自分に言い聞かせていました。次に生まれてきたら、夫はものすごく幸せな人生を送れるはずだって。夫に出会わなかったら今の私はいない、というくらい恩のある人だから、どんなわがままを言われても私がサポートして当然だと思っていましたね。だから、長年の介護をしんどいと思ったことはほとんどないんです。しんどいのは夫であって、私ではないですから。

最期は旭川で過ごした最愛の夫の命日は“お大師様”と同じ3月21日
闘病生活の最後の7年間、和夫さんは知人の紹介で北海道・旭川のリハビリ病院に移った。イルカさん自身も近くに部屋を借り、コンサートの合間をぬっては訪れ、何日間かはそこで暮らすという生活を続けたという。
イルカ 7年間、毎月夫に会いに旭川に通いました。最後の3年間はまったく動けなくなって、息もできずに管を入れていてギリギリの状態でした。でも、何も話せなくなった夫の気持ちは、表情のかすかな変化で、これはいやなんだな、これは嬉しいんだな、とぱっと見てわかりました。先生に治療方針を相談されたときも、夫の目を見て「それは嫌がっているようです」と即答できました。夫はずっと私の盾になってくれていたので、ここからは私が盾になってあげなきゃ、という気持ちが強かったですね。
亡くなる前日、先生から「今日は珍しく血圧が低いんですよね。一応、ご報告だけ」と電話がありました。普段なら「ああ、そうですか」で済む話なんですけど、その日に限って、なんとなく行ったほうがいい予感がして。するとめずらしく息子も気にしてくれて、「旭川行き飛行機の最終便、今2席だけ空いてるよ。じゃあ行こう」と。あれは呼ばれたんでしょうね。
夫に面会に行くと彼は休んでいたので、「冬馬も来たよ。よかったね」と話しかけたら「あー、あー」と返事をしてくれて。それから息子とお寿司を食べにいってひと安心と思っていたら、翌朝8時にまた先生から電話があって「ご主人の様子が落ち着かないんです」と。すぐに駆けつけて、息子と一緒に「よく頑張ったよ、お父さん」って声をかけた後、お昼すぎに静かに息を引き取りました。2007年3月21日、お大師様(真言宗の開祖・空海を指す)と同じ命日。その日のうちに夫を東京の家に連れて帰って、自宅葬をしました。
亡くなる直前に97歳の父が望んだ「真っ白なお墓」への“リフォーム”
イルカさんの両親も、コンサートで飛び回るイルカさんを支えるべく、早くから夫婦と同居していた。世代も育ちもまるで違う義母とイルカさんの母は、温泉やらハワイやら、一緒に旅行にいくほどに気が合った。イルカさんの父・保坂俊雄さんは生涯現役のサックス奏者で、亡くなる4日前には、2025年開催の「イルカ with Friends Vol.19」のステージで演奏、拍手喝采を浴びた。イルカさんの母は95歳、父は97歳で安らかに世を去ったという。
イルカ うちの母は義母と20歳ぐらい年が離れていたけど、すごく仲良しだったんですよ。お義母さんは目が悪かったから、1人だと心細いんです。それでうちの母は、「お義母さん、ビール飲みましょうよ」って声かけて。義母もビールが好きな人だったので、2人でよく晩酌をしてましたね。
両親は「もし倒れても延命はしないでほしい」と言っていましたが、結果的には2人とも老衰で亡くなりました。2021年、95歳で亡くなる2時間前まで母は普通に喋って、お水を飲んで「ああ美味しい」と言ったのが最後。そのあと寝たまま、静かに息を引き取りました。父は2025年、私のコンサートで演奏した4日後、母と同じように眠るように旅立ちました。
父はもともと、「俺は墓も葬式もいらない、散骨してくれ」と言っていたんです。でも夫が亡くなったとき、「保坂家・神部家」合同のお墓を建てるために、石材店の方に紹介していただいたお寺へ相談に行ったら、父も付き添ってくれて、「俺もここがいい」って急に言い出して。家に帰って母に、「パパ、散骨してくれって言ってたのに、今日は家族と同じ墓がいいって言ってたよ」と話したら、母は「あら本当? 嬉しい」って。
合同のお墓を建てたそのお寺は、江戸川区・小岩で生まれ育った私の母の家系の菩提寺とご縁があるところで、しかも私の父が暮らしていた新宿・初台に戦前あったお寺ともご縁があるところで。すごく不思議な巡り合わせを感じましたね。
ところが父が97歳で亡くなる少し前、急に妙なことを言い出したんですよ。「墓の中が暗くて嫌だなあ。ママを納骨したときにあのお墓を見たけど、中が黒い石で、なんだか暗いだろ」と。新しいお墓だったんですけど、確かに内側がすべて黒い御影石で、それが気に入らなかったみたいで。「じゃあ真っ白にする?」と聞いたら「うん、それがいいね。明るくしてくれ」って言われました。
仕方なく石材店さんにお墓のリフォームを相談したら、「夏は暑いから、秋になったら一緒にうかがいますよ」と快く受けてくださって。10月に新しい石のプランが3つも送られてきて、「これがいいね」って父と決めたら、その月のうちに父は逝ってしまいました。
父と約束した通り、すぐにリフォームを依頼して、お墓の中を白い石に張り直して、真っ白な玉砂利も敷いてもらいました。そして今年4月、父が望んだ通りの白くて明るいお墓に納骨しました。終活なんて言葉がない時代から、両親は自分の人生のしまい方についてよく話し合っていました。私も、これでようやく肩の荷が下りたなと思っているところです。
義母から繰り返し言われた、「家族仲良くね」という遺言。縁をつないでくれた義父の警察官としての勲章。夫の背中が教えてくれた「1日1回の笑い・楽しい・おいしい」。両親の「延命なし」「明るいお墓で眠りたい」という意思表示。愛する人たちから託された思いを、私の子どもや孫の世代へと渡していきたいです。私もそろそろ自分の人生のしまい方を考えなきゃいけませんけど、まだもう少し歌っていきたいですね。(了)
《ゲスト紹介》
イルカ
1950年、東京都生まれ。女子美術大学フォークソング同好会で出会った神部和夫さんがリーダーを務めるグループ「シュリークス」に加入。1972年に神部さんと結婚。神部さんのプロデュースで1974年「あの頃のぼくは」でソロデビューし、翌1975年に伊勢正三作詞作曲の「なごり雪」をカバーして大ヒット。「雨の物語」「海岸通」などのヒット曲があり、絵本作家、ラジオパーソナリティとして活躍するほか、近年では着物のデザイン、・手描き・染めも手がける。IUCN国際自然保護連合親善大使。パーソナリティを務めるニッポン放送の「イルカのミュージックハーモニー」は、1991年の放送開始から35年目に突入。デビュー55周年を迎えた今も全国でコンサート活動を続けている。
温かい歌声と愛されキャラをお届け
デビュー55周年ツアー開催中
2026年にデビュー55周年を迎えたイルカさんが、今も変わらない温かさにあふれる歌声と、愛され続けるキャラクターとで感動をお届けします。ツアータイトルは「イルカ55周年コンサート~あいのたね♥まこう!~」。2025年には、本ツアーと同タイトルの新曲「あいのたね♥まこう」を配信限定デジタルシングルで、そして2026年5月には、3枚組ベストアルバムをリリース、本ツアーもスタートしています。ラジオやSNS、動画配信などを通じ精力的に活躍中のイルカさんとの“55年”がたっぷり詰まった魅力あふれるステージを堪能しよう。詳細は公式サイト<http://www.iruka-office.co.jp/>まで!
配信限定シングル「あいのたね♥まこう!」(日本クラウン)
3枚組ベストアルバム『「IRUKA Go!Go!~55th Anniversary~」イルカ55周年ヒストリー・ベスト』(日本クラウン)



