甲府盆地を見下ろす山梨県甲州市の山麓に、半世紀以上前からイスラム教徒の土葬を受け入れてきた曹洞宗の寺院があるという。まだ日本人の土葬も当たり前に行われていた時代から他教徒の埋葬を受け入れてきた背景には、どのような歴史があるのか。そして、日本人の土葬がほぼすたれてしまった一方で、イスラム教徒の土葬霊園について多くの議論が噴出している現状をどう見るのか。この寺院の古屋和彦住職に話を聞いた。(文:山川徹 写真:西田周平)

ムスリムにとって火葬は“超えてはならない一線”
境内からは、町全体が見渡せた。山肌を彩るピンク色は、満開になった桃の花だという。山梨県甲州市の曹洞宗寺院である文殊院の境内に隣接する、墓地の入り口には「イスラーム霊園」と記された白い看板が立つ。ここにイスラム教徒(以下、ムスリム)がはじめて土葬されたのは、1962(昭和37)年のことだった。文殊院の古屋和彦住職は、なだらかな斜面に棚田のように整備された墓地を示す――そこが、“日本初のイスラム霊園”だという。
「私が文殊院でイスラム教の方々と関わるようになり、三十数年が過ぎます。長く付き合う中でわかってきたのは、彼らにとって火葬は超えてはいけない一線だということ」
ムスリムにとって、火葬は超えてはならない一線――それは何を意味するのか。この「イスラーム霊園」を案内する古屋住職に話を聞いた。
古屋和彦住職(以下、古屋) いま日本では、99・98%が火葬です。対して土葬はわずか0・02%に過ぎません。まさに日本は火葬の国です。私が文殊院に入った35年前、こう思っていました。ムスリムも、そろそろ火葬を受け入れたほうがいいのではないか、と。
日本に暮らすムスリムの中には、日本の慣習に合わせて暮らしている人がたくさんいます。あれはムスリムのお客さんにお茶うけを出そうとしたときのこと。私はイスラム法上で食べてはいけない食材が使われていないか、成分表を確認しようとしました。そんな私に対して、その人は「気にしないでください。大丈夫ですよ」と自然に言いました。些細なことかもしれませんが、そんな姿に、この方は日本の生活に“なじんでおられる”のだなと感じました。
しかし、一緒に過ごすうち、彼らにとって火葬だけは、どうしても妥協できないものなのだということもまた、次第に理解しました。どれほど日本の習慣になじんでいるように見えるムスリムでも、土葬できる墓地を必死に探しておられたからです。イスラム教では、遺体は神から授かった身体として尊厳を持って扱われます。火葬はその身体を破壊する行為と見なされます。それは、大人も子どもも、そして胎児だとしても変わりません。
ある日、流産した日本人女性から電話を受けました。彼女はパキスタン人のだんなさんに「胎児でも絶対に火葬してはダメなんだ。土葬ができる場所を探してほしい」と頼まれたと話していました。おそらくイスラム教についてあまり知識がないまま結婚されたのでしょう。もしも私が彼女に「日本は火葬の国なんだから、火葬にしたらどうですか」「だんなさんと相談して火葬にしてみては」と勧めたら、彼女は火葬を選んだかもしれない。しかし彼らの事情やイスラム教について知れば知るほど「火葬にしたほうがいい」とは、私からは言えなくなりましたね。
もしも火葬にしたら――その女性が、イスラム教について詳しく知ったときに、取り返しのつかない後悔に苛まれる恐れがあります。イスラムの教えでは、彼女が子どもの尊厳を奪ってしまったことになるわけですから。また子どもを火葬したことによって、コミュニティの中で孤立したり、夫婦関係や家族関係が破綻したりするリスクもあります。ムスリムにとって、火葬は亡くなった人だけではなく、遺された家族の生き方に関わる問題なのです。

イスラム霊園開設は、武田信玄菩提寺の「イスラム大会」がきっかけ
山梨県甲州市は、2005(平成17)年に塩山市、東山梨郡勝沼町・大和村が合併して発足した市である。文殊院は、このうち旧塩山市の中心部にあるJR塩山駅を見下ろす山の中腹に建つ、200ほどの檀家を抱える中規模寺院だ。では、そもそもなぜ、この曹洞宗寺院の隣にイスラム霊園があるのか、不思議に思う人もいるだろう。この日本初のイスラム霊園設立の背景にあったのが、古屋住職の伯父でもある、同寺院の先代住職・古屋正明氏の存在である。
古屋 きっかけは、1959(昭和34)年6月のことでした。当寺院と同じ旧塩山市に、あの武田信玄が眠る恵林寺という臨済宗のお寺があります。その恵林寺でこの年、互いの宗教や教義を理解し合う「イスラム大会」が開かれたんです。
山梨とイスラム教の縁を取りもったのが、山梨県出身で、著名なイスラム教研究者として知られる須田正継さんという人物。須田さんは、戦前・戦中に外交官として中国大陸での諜報活動に従事していたことでも知られます。戦後、来日したパキスタンのイスラム宣教団がその須田さんを頼り、仏教徒とムスリムが交流するための「イスラム大会」という交流会が恵林寺で開かれた、というわけです。この「イスラム大会」に参加した同寺院の先代住職は、日本ムスリム協会の3代目会長だった斎藤積平という方と意気投合します。
そこで恵林寺でのイスラム大会のはや翌月、この文殊院でも、1週間泊まりがけで「イスラム大会」が催された。ご存じのようにイスラム教では、豚肉やアルコールが禁止されています。そこで、うちの檀家さんをはじめこの地域の方々が毎日、食材などをを差し入れてムスリムの方のための食事をつくってお出ししたのだといいます。地域の方たちが、和服を着て抹茶を点てたり餅つきをしたりしてもてなす一方、ムスリムの方々はコーランの講話などをしたそうです。
地域の方にとっても参加したムスリムにとっても、そのイスラム大会がすばらしい体験となったのでしょう。その体験があったからか、その翌年、斎藤積平さんは再び文殊院を訪ね、こう切り出します。「ここに、イスラム教徒の墓地をつくらせてくれないか」と。先代はその申し出を、ためらうことなく受け入れることにしました。先代は、宗教や宗派の垣根を越え、「友人のお願いだから」「友だちが困っているから」と、快諾したわけです。

「イスラム霊園をつくりたい」の要望に、先代住職は“即決”した
60年以上前の話です。都市部で火葬が増えていたとはいえ、地方では土葬はまだまだ一般的な埋葬の形でした。この地域の人たちも、土葬そのものにはまったく抵抗感がなかったのでしょう。ただし先代は、当時の日本の状況的にこのまま火葬が増えていけば、ムスリムの土葬は難しくなるかもしれないと危惧していたのでしょう。先代の決断の背景には、日本におけるそうした埋葬の形の変化もあったのだろうと思います。
とはいえ、日本で新たに墓地をつくれるのは事実上、宗教法人か自治体に限られます。当時、日本ムスリム協会は宗教法人ではなく、任意団体でした。日本ムスリム協会は、文殊院に専用の墓地を整備してもらって、利用するつもりだったのだと思います。
しかし文殊院も曹洞宗の寺院として、曹洞宗の宗務庁や寺院規則に従わなければなりません。寺院に付属する墓地に埋葬できるのは基本的に、その宗教や宗派の信徒だけ。いまでこそ「宗派不問」をうたう大規模霊園なども増えてはいますが、寺院付属の霊園であれば当時は、同じ仏教徒であっても宗派が異なればお断りするのが当たり前のことでした。ましてやイスラム教なんて、という反応だったのではないでしょうか。
そこで日本ムスリム協会は、みずから宗教法人格を取得する必要に迫られて、申請から6年後の1968(昭和43)年、ついに宗教法人の認可を受けました。その後、日本ムスリム協会がこの地に墓地経営許可証を受領したのが、1987(昭和62)年のことです。

ムスリムを土葬する際には、檀家が“穴掘り”をお手伝い
文殊院のある塩山牛奥という地域において、土葬は「穴を掘る」、墓地は「穴場」と呼ばれていた。土葬には穴を掘る人や棺を担ぐ人など人手が必要になる。地域でそうした土葬に関わるのが、輪番制の「穴場係」だ。文殊院に残る土葬を記録したノート「穴場帳」によれば、この地では昭和50年代半ば――1980年代初頭までは、4割ほどが土葬だったと記録されているという。
曹洞宗の大本山永平寺(福井県)で修業を終えた古谷住職がもんじゅインに入った1991(平成3)年ともなれば、塩山牛奥の葬送はほぼ火葬に移行していた一方で、隣接するイスラーム霊園では、年間1人から2人程度を土葬していた。
古屋 日本ムスリム協会から土葬をしたい旨連絡が入ると先代が、農閑期にお寺の手伝いをしてくださる檀家の方々に「今度、ムスリムの埋葬があるそうです」とお願いしていました。まだこの地域には、土葬を経験した人たちが大勢いましたからね。彼らの力を借りて、ムスリムの土葬のお手伝いをしていたわけです。
意外に思われる方もいるかもしれませんが、ムスリムの土葬も、かつてこの地で行われていた土葬も、そう大きな違いはありません。
まず長さ約190センチ、幅約90センチの棺の大きさに合わせて、縦2メートル、幅1メートル、深さ130センチから150センチほどの穴をあらかじめ掘っておきます。日本の場合は、そのまま棺を穴に安置して土をかぶせます。ムスリムの土葬では、カファンと呼ばれる白い布にくるまれた遺体を棺から出し、直接地面に寝かせます。その後、遺体に土がかからないように棺をひっくり返して遺体にかぶせます。イスラム教の埋葬では遺体の正面に空間が必要らしく、棺でその隙間をつくるわけです。さらに棺の蓋をその上に乗せて、土を下ろす。やがて時間が過ぎると棺桶が腐って、土に還っていく。
日本と異なるのは、棺をひっくり返してかぶせる作業だけ。それも埋葬に参列したムスリムの方々が行います。土葬を手伝ったある檀家の方は、「日本の土葬と親戚みたいだ」と話していましたね。地元の人はムスリムの土葬を、自分たちが行ってきた埋葬の延長線上にあるものとしてとらえていたのでしょう。

亡くなった日本人妻の家族が、“ムスリム夫”とトラブルに
先代住職・古屋正明氏の逝去に伴い、古屋住職があとを継いだのは2000(平成12)年のことだった。イラン人などの出稼ぎ者が増加していた時期で、文殊院横のイスラーム墓地は次第に手狭になってきていた。そこで日本ムスリム協会は、既存霊園に隣接する場所に新たな墓地を整備したが、その維持管理のため、それまでは無料だった利用料の徴収に踏み切った。現在の規約では、会費の納入期間に応じてその利用料は50万円から90万円。こうした状況のなかで、利用費を支払えないムスリムから、「文殊院の墓地に埋葬できないか」という相談が、寄せられるようになる。そこで古屋住職は、檀家が眠る文殊院付属の墓地の一部を、ムスリムの墓地として提供する決心をする。
古屋 寺院が、異なる宗派の方の埋葬を行うと、場合によっては税務上「収益事業」とみなされ、課税対象となることがあります。しかもムスリムはうちのお寺で葬儀や法事をするわけでもありません。寺院経営の面でいえば、うちのお寺にたいしたメリットがあるわけではありません。けれども私が宗教者として生きていく上で何よりも大切にしているのが、経済的なメリット・デメリットではなく、「いかに寺院として社会貢献をするか」ということ。
いまも私としては、「もともとご縁があったムスリムだから、うちの霊園に受け入れている」といった意識はあまりありません。新興宗教の方やご事情がありお墓がなくて困っている方……。どこにも行き場がない方々の受け皿になることこそ、お寺が果たすべき本来の役割ではないか。ムスリムの方とのご縁で先代が築いたものを引き継ぐ上でも、行き場のない方々の受け皿にならなければと思うのです。
私が住職になったばかりの頃に多かったのは、ムスリムと結婚した日本人女性の埋葬です。奥さんが病気や交通事故で亡くなると、ムスリムのだんなさんは奥さんの遺体を生まれた本国に運び、土葬しようとします。そこで困るのは、奥さんのご家族。娘さんが交通事故で亡くなったと聞き、慌てて駆けつけたら、ムスリムのだんなさんが母国パキスタンで土葬にすると言い張って聞かない。ご家族としては、娘を菩提寺で弔って、代々のお墓に入れたい。お互いに譲れないから、議論は平行線をたどって、揉めに揉める。
両者の話し合いの中で、「ムスリムを土葬してくれるお寺が山梨にあるらしい……」と、この文殊院の存在を知り、うちに連絡をくださる関係者の方がたくさんいました。ムスリムのだんなさんは「土葬ができる」とホッとする。日本のご家族は「仏教のお寺で葬式ができるのなら」と安堵する。ご家族に頼まれて、イスラム教徒の女性の戒名を書いた経験は何度もあります。
檀家がみんな、「イスラム霊園」に賛成だったわけではない
家族を亡くした人たちは、藁にもすがるような思いで文殊院に電話してきたのだろう。ムスリムと結婚した日本人の家族にとって、文殊院はひとつの救いになったはずだ。
では、地域の人たちはどう受け止めたのだろうか。先代がイスラーム霊園設立に協力した六十数年前には、地域の人にまだ土葬への抵抗感がなく、受け入れはスムーズに進んだ。しかし、この地もほぼ火葬社会となった2000年以降では、地域住民の反応に変化があったのではないか。
古屋 文殊院の墓地へのムスリムの土葬について檀家さんに事情を説明しましたが、みながはじめから賛成だったわけではありませんよ。でも、檀家さん同士で徐々に、「住職もああ言っているし、先代もやってきたことだから」と、積極的ではないにせよ理解が広がっていきました。
ただし、当時は檀家さんに心配をかけてしまうから、こういった取材はお断りしていました。檀家さんがまだ納得しておられない段階で、メディア報道で「文殊院がムスリムを土葬する」と知ったら、檀家さんはどう受け取るか。不安が募るであろうことは言うまでもありません。
檀家さんの理解を得て、これまで、文殊院の墓地でも約200人のムスリムを土葬してきました。ただ、ご覧いただいた通り、うちの墓地にはもうほとんと空きがありません。なので最近受け入れているのは、以前ご家族を文殊院で土葬された方で、「身近な人のそばで眠りたい」と相談にこられたようなケースだけです。といっても、年に1人か2人ですが。
数日前にも、イラン出身の方を文殊院の墓地に埋葬しましたよ。土葬に参列した30人ほどが、本当に感謝してくださいました。でもそれは、埋葬する場に困っていることの裏返しでもありますよね。大切な人をイスラム式の土葬で見送れたという安堵がある半面、長く暮らしてきた日本で、ムスリムとしてどう最期を迎えればよいのか……という苦悩を抱えておられるのが、私にも伝わってきましたね。
先代は、困った人に手を差し伸べるために、「イスラーム霊園」の設立に尽力しました。実は私も、サウジアラビア王国大使館からの提案で、新たなイスラム霊園の開設を試みたことが二度あるんです。しかし、成し遂げることはできなかった。一度目は、20年近く前。行政と交渉して、甲州市内のある場所を候補地としたのですが、その地の住民の方のご意見を聞き、最終的にサウジアラビア大使館が見送りを決めました。二度目は、家族ぐるみのお付き合いをしていたサウジアラビア大使と共に計画を進めている途中に、2011年3月の東日本大震災が起き、こちらも頓挫してしまいました。
二度の挫折を経て私も、先代がいかに苦労しながらムスリムの方に寄り添っていたのかあらためて実感しました。先代からこの文殊院を引き継いで思うのは、「ここは日本だから」とこちらの価値観を押し付けるのではなく、互いを理解しようとして、譲れる部分は譲り合うことの大切さ。そしてそのことは、ムスリムの側にもいえることだと思うのです。
私も日本人として、地域住民の方々が、自分の住んでいるエリアに新たにイスラム霊園が開設されるなんて聞いたら、そりゃあ不安に思うであろうお気持ちはよくわかる。仮に200人を土葬できるムスリム向けの墓地を一気に整備しようなどとすれば、地域住民の不安や反発が爆発するのも無理はないでしょう。
そもそものその原因として私が思うのは、日本人とムスリムが“同じ場”を共有していないこと。ムスリムだけの空間で何が行われているのか。そのわかりにくさが、住民の不安や反発につながっているわけです。

ムスリムの側ももっと、日本の風習に歩み寄るべき
それならばたとえば、ムスリムの方の土葬に理解のある寺院で、最近増えている墓じまいをしたあとの区画に、1〜2人だけまず埋葬するのはどうでしょうか。公営の墓地の一部をイスラム用に使わせてもらうという形でもいい。そうすれば、住民の方の不安も和らぎ、周囲の理解も得やすくなるのではないでしょうか。
あるいは、樹木葬をうまく利用するという方法もあります。そもそも、いま日本で語られている「樹木葬」って、定義が曖昧ですよね。1本の木をその人の墓標に見立てて埋葬されたいと願う人もいれば、合祀を望む人も少なくありません。既存の霊園敷地内に開設された「樹木葬エリア」のようなものを、「そんなものは“本当の樹木葬”ではない」なんておっしゃる向きもありますが、しかし私は、その曖昧さがいいのではないかと思うのです。日本人は古来、曖昧なものを曖昧なまま受け入れてきました。とするなら、山林に開設された“樹木葬区画”の一部を土葬スペースとして認める……なんてこともできるのではないか。
ムスリム側にももっと、日本の共同体に入ってほしい。それは、大げさなことではありません。たとえば、近所のお寺の墓地清掃や、盆踊り、座禅会など寺院の行事に参加してみる。それが、共同体の一員になるということの第一歩です。共同体に入らなければ、譲り合う気持ちも助け合う気持ちも芽生えません。ムスリムの方々ももっと日本人と交流し、お寺を紹介してもらって、そのお寺のご住職に「ここで土葬してもらうにはどうしたらいいのか」といった相談をしてみればいいんです。墓地清掃を手伝ってくれたり、盆踊りに参加してくれたりする人をむげに断る僧侶はそうそういないはず。実際、私の友人の僧侶のなかには、「1〜2人だったら受け入れられるんだけどなあ」と話す者もいます。
宗教や宗派を超えて、その人の行為や考え方を理解し、わかり合っていく。互いに理解し合おうとする日常の積み重ねで、お寺や地域の側にも、ムスリムの土葬を受け入れる土壌ができると感じるのです。(了)
《人物紹介》

古屋和彦(ふるや・わげん)
山梨県南アルプス市生まれ。1990年、永平寺での修行を終え、母の兄である古屋正明氏が住職を務める文殊院の僧侶となる。2000年、正明氏の逝去にともない、文殊院の住職に。古屋住職は「私の母は父を早くに亡くしていたので、先代住職を本当の父のように慕っていました」と語る。



