俳優・登山愛好家の市毛良枝、100歳まで生きた母の「結婚式のようなお別れ会」

       
インタビュー 医療・介護
2026.11.06

 俳優としてドラマや舞台で人気を博し、40歳から山登りも始めた市毛良枝さん。100歳で他界した母を13年にわたり介護した経験は、今も「反省ばかり」だという。自分を見失いかけた介護うつ、周囲に助けを求めることの大切さ、そして、直葬にもかかわらず30人もの人が集まってくれた母の見送り。著書『百歳の景色見たいと母は言い』に込めた思いと、本には書ききれなかった介護の日々、そして自身の終活について聞いた。(文:樺山美夏 写真:西田周平)

「食べなきゃ死んじゃうんだから」と、スプーンで母の口に食べ物を運ぶ毎日

 1971年にテレビドラマ『冬の華』(TBS系)でデビューし、『嫁姑シリーズ』の若妻役で「お嫁さんにしたい女優」として一世を風靡した市毛良枝さん。父が他界した40歳の頃、山好きの父の担当医に勧められて山登りを始めると、アフリカ最高峰のキリマンジャロに登頂し、ヒマラヤなどにも足を運ぶ芸能界屈指の登山愛好家に。ほかにも、還暦前に始めた社交ダンス、船舶やダイビングの免許取得と、興味のおもむくまま挑戦を重ねてきた。

 しかし54歳のとき、母が脳梗塞で倒れたのを機に、大好きな山にも思うように行けない13年間の介護生活が始まる。著書『百歳の景色見たいと母は言い』(小学館/2025年)には、何度も病に倒れた母のリハビリ生活、自身の介護うつ、車椅子の母を連れていった4回の米国旅行など、目まぐるしくも充実した日々を重ねた母との介護経験をつづっている。しかし、それから10年が経った今、市毛さんの胸には複雑な思いが去来しているという。

市毛良枝(以下、市毛) 私の著書『百歳の景色見たいと母は言い』を読んでくださった方から「お母様の介護をやりきった市毛さんなら、なんの後悔もないのでは?」と言われることがあります。でも、「やりきった」なんて気持ちはまったくないんです。確かに葬儀の直後は、母らしく送れてよかったなと、悲しさよりもむしろ充実感のようなものがありました。でもそれから5年ぐらい経つと、逆に反省してばかりの日々に。さらに10年経った今では、母の“愛されキャラ”にも助けられ、とても楽しい時間であったなあと思えるようにまでなりましたけど。こう、二段階、三段階で気持ちが変わっていった気がします。

 「反省してばかり」というのは、主に食事のこと。母はもともと、食べ物の好き嫌いが激しい人でした。そんな母の体重が20キロ台まで落ちた時のしんどそうな表情は、忘れられません。母がお世話になった看護師さんが「“80歳を過ぎると何を食べてもおいしくない”と高齢の患者さんがよく言う」と言っていて、そんなものなのかなと思っていたのですが、母も、フランスパンをバリバリ食べていたのにロールパンも硬いと言うようになり、やがてミルクに浸さないと食べられなくなっていって……「ああ、こういうことなのか」と。それでも、母には食べてもらわなくてはと必死でした。

 少しでも母に栄養をつけたくて、「食べなきゃ死んじゃうんだから」と諭しながら、母の口にスプーンで食べ物を運んでいました。やや強引に、無理やり口に押し込んだわけではないですよ。母も、最初のうちは素直に受け入れてくれました。けれどやがて「これって結局、経管栄養と何が違うんだろう?」と悩むようになり、看護師さんや介護関係の方に相談したことも。でも、「いや、口から食べられるというだけでも全然違いますよ」と言われたので、私としては迷いながらも続けていましたね。

 でも食べると母も元気になるので、アメリカのオレゴンに車椅子を押して4回も連れていくことができました。母はオレゴンが大好きで、すでに口数は少なくなっていた母が、オレゴンに行くと生き生きとしておしゃべりに。だから、食べてリハビリして元気になるたびに、とにかく1日1日、母には楽しくいてほしいと私も腹をくくり、あちこち連れ出しました。母も、最後の最後まで、「自分は死なないのでは」と思っているような人でしたから。 

   初めて母をオレゴンに連れて行った際の様子。雪の積もった冬山を背景に。(市毛さん提供)

私だって、「じゃあ楽にしてあげるわよ」なんて言いかねない

 頑張って介護を続けるうち、市毛さん自身の心と体は悲鳴を上げ始める。そのことに気づくきっかけとなったのは、病院で看護師からかけられた、思いがけないひと言だったという。

市毛 母にはなんとか食べさせられても、自分は食べる余裕がないという状態が普通になっていたんです。東京に住んでいるのに、コンビニでおにぎりひとつ買う暇がない。病院の看護師さんからちょうどその頃、「ご自身の食事はどうなっていますか? まさかお母様と同じものを食べてはいないですよね?」と尋ねられまして。同じものを食べられていたらまだいいほうで、実際は母よりもまともに食事がとれない状態でした。

 病院のスタッフさんが「市毛さんの娘さんのほうが心配です」と話していたと知って、あ、そうなのかと。そこで看護師さんに勧められてソーシャルワーカーさんの面談を受けたら、2時間、涙が止まりませんでした。ただポロポロと涙が流れて何かを訴えている自分がいたので、これは介護うつだろうと気づきました。

 その翌週、私と同じくずっと親の介護をしてお母様を亡くしたばかりの友人に会った際にも、私がお悔やみを言おうとしたら「あなたのほうが暗い顔をしてる。危ないよ」と逆に慰められてしまって。ああ、やはり自分は追い詰められているんだなあと。

 だから私は、老老介護で悲しい結末を迎えてしまうような方たちを、とても責められないです。母が楽天家だったから私はなんとか大丈夫でしたけど、もしも「死にたい死にたい」なんて毎日のように言われ続けたら、私だってどうなっていたか。自分だってろくに食事もできず、疲れきっている。「じゃあ楽にしてあげるわよ」なんて言いかねないですよ。あるいは親を置いて自分が先に逝くか。そんなことをリアルに想像できました。追い詰められている自分に気づいて初めて、“自分が立っていられる場所”をつくっておかないと、母を見送ったあとに、今度は私が立てなくなるなと。だからこそ、“急ブレーキ”をかけたんです。それからは、自分の人生のことも考えるようになりました。

   ショートステイでパズルをする市毛さんの母。(市毛さん提供)

母のお別れ会では、「なんだか結婚式みたいで楽しかったわ」と


 医師だった市毛さんの父は生前から献体を望んでいた。市毛さんの介護の末に人生を終えた母の葬儀では、直葬を選ぶことに。父母いずれの弔いも、“思いがけない展開”が待っていたという。

市毛 父は耳鼻科医でしたが本来は外科系で、献体してくださった方を解剖させていただいて医学を学び、医師になれたのだという強い思いがありました。若い頃から、「自分は献体する。だから葬儀は必要ない」と言っていました。ただ遺言には「子どもたちの社会的な理由で必要なら葬儀をしてもいい」ともあり、お別れの会をしようということに。父はクリスチャンだったのですが、以前通っていた教会とはすでに縁がなくなっていたので、臨終に立ち会っていただいた別の教派の司祭の教会にお願いしました。

 父は墓もいらないと言っていましたが、これは「私の入るところがない」と言う母の希望で、東京郊外の霊園にお墓を購入しました。

 献体とは、1〜2年ほど時間をあけてから解剖して研究に役立てたのち、火葬して遺族のもとに戻すというのが通常なのですが、父の希望は、遺骨も戻さなくていいという「永久献体」だったんですね。ところが2年後、献体した大学のほうから、解剖結果の報告と遺骨を戻すので受け取ってほしいと連絡がありました。こちらの意志と先方の事情とがどこですれ違ったのか、父は家に帰ってくることになりました。供養もしていただき、迎えにいって家に戻り、新しいお墓に落ち着くことになったんです。のちにお墓も、生前ずっと帰りたいと言っていた横浜へ移したので、父は今、かつて母と出会った横浜で、自分の診療所があった場所を見下ろせる霊園に眠っています。

 母の見送りは、もっともっと想定外でした。100歳という十分生きたといえる年齢でしたし、私としては母をいったんは家に戻してから、ゆっくり考えたいと思っていました。ただ、病院の紹介で早朝に来てくれた葬儀屋さんとのやり取りで、どんどん思いがけない展開になってきました。葬儀屋さんは朝、たった今親の死を見届けたばかりの私に対して、とても丁寧に葬儀の現状を伝えてくれました。火葬場が混雑していてなかなか空かないこと、もしいったん家に連れて帰ると次に受け入れてもらえるまでどれほど時間がかかるかもわからないこと、そしてそうなった場合の人手や手間などについても、とても納得のいく形で。それで、その時の火葬場の状況でいうと翌日であれば受け入れ可能であり、「家に帰ったら、次に火葬の順番がまわってくるまで、あなたは家から出られなくなりますよ」と言われたことで、そのまま火葬場の霊安室にお預けすることにしました。

 火葬場の霊安室ですから、限られた面会時間に私も行って待機していると、どなたからお聞きになったのか、大勢の方が訪ねてきてくださいました。母は静かに安置されているわけですけど、関係者がお別れにきてくださるたびに出てきてもらって(笑)、「お顔に触ってもいいですか」「お母さま、面白かったですよね」とかって言われて、なんだかとてもにぎやかな場になって。

 その後の葬儀の場でも葬儀社の方は、十分な打ち合わせもなかったのに、私の意を汲んで「白い花だけというのは違う気がしたので、勝手ながらいろんな花を入れておきました」って。親族も多くもないし、仕事のある人に無理してきてもらうことも避けたいので、参列者はせいぜい5〜6人でと話していたのに、思いもかけず30人ほどの方が集まってくださったのに対しても、冷静に対応してくださったり。プロの気遣いがありがたかったです。

 母は、なぜだかまわりを笑わせる人でした。生前の母を知る人に会うと今でも、「憎めなくてかわいい人でしたよね」なんて言われます。そんな母だったからこそなのか、ご近所の方や長くお世話になっていた介護施設の方には、会っていただけなくて残念な思いをさせてしまいました。「私たちも、ご火葬の前にお顔を見て、お別れの言葉を言いたかった」って。実は母が永眠した日が週末だったこともあって、、個々の方にちゃんとお知らせできないまま火葬が済んでしまったんです。それがなんだか申し訳なくて、あんなにみなさんを面白がらせて、私が知らないエピソードがたくさんあるなら、みなさんがご存じの母を語っていただくのもいいのではないかと。そこで半年後に改めて、“お別れの会”を開いたんです。

 そのお別れの会のドレスコードは“サムシングパープル”。カジュアルでいいから、服装のどこかに、母の好きだった紫を身に着けてもらえればと。母が元気だった頃の写真を会場のモニターで流しっぱなしにして、みなさんには思い出話を思いきりしていただき、おかげさまでとてもいい会になりました。本当にやってよかった。ある方からは、「適切ではないかもしれないけど、なんだか結婚式みたいで楽しかったわ」と言っていただきました。


   オレゴンには4回も訪れた。元気なころから活動的で思い出をたくさん作った。(市毛さん提供)

担当医師からは、「尊厳を込めて“老衰”と書いてよろしいですか」と


 市毛さんの父も母も、財産はほぼ使いきって旅立ったという。つまり両親はものやお金の代わりに、“迷いのない生き方”を遺していったのかもしれない。その潔さは、終活に対する市毛さんの考え方にも影響を与えているようだ。

市毛 父は「子孫に美田を残さず」という考えの人で、子に残すのは教育だけと常々言っていました。そのすべてを遺言書にきっちり書いて、それ以外は使いきっていました。母も似たようなもので、もろもろが終わってみると、ほぼゼロ。おかげで、相続トラブルなどの苦労は何もありませんでした。私には20歳近く年上の兄が2人います。その兄たちも、「本当に見事だったよね」と。だから私も、自分が死んだときの後始末についてはすでに決めてあります。

 母を介護している間にはなかなか手をつけられなかった自分の身の回りの整理も、この10年でだいぶ進みましたよ。着物だけはまだ手つかずですけれど。昨年、体調の変化がきっかけで「むしろ早めに施設に入ったほうがいいのかなあ」なんて考えたこともありましたが、母の介護で、介護現場のこともよくわかっています。制度上の制約もあり、施設での介護はどうしても本人の自由は制限されがちです。母は私がいたからそこを埋められたけれど、私はそうはいきません。だから、施設でお世話になるにしてももう少し先かなと。そのために、きちんと運動もしています(笑)。

 お墓については、今のところは両親の眠っているところに私も入るつもりですが、いっそのこと今のうちに、親の墓を永代供養に切り替えておくことも検討中です。一緒に暮らしていた3匹のペットも、この数年で1匹ずつ見送り、今は猫1匹だけになりました。父母を見送った後も、誰かを送るということを繰り返しているんだなあとしみじみ思いますね。

 母が息を引き取った後、担当医の先生から「尊厳を込めて“老衰”と書いてよろしいですか」と尋ねられ、私は「それで結構です」と。母は、自分の持てる機能を、最後の最後まで使い果たして終わったんだなあって。十分生きたと心の底から納得できましたから。「老衰は嫌だわ、老いて滅びるなんて」などと言う友人もいましたけど、私は、「老衰」でよかったと思っています。

 とはいえ老衰は、みなさんが思うほど楽なものではありません。本人も周囲も本当に大変。母が97歳で心筋梗塞を起こした時は、たまたま病院にいたから命をつないでもらえましたけれど、もし家だったら助からなかったでしょう。もしかしたらそのほうが母は楽に逝けたんじゃないかなって、悩みました。私の本には、いろいろとつらかったことも書きましたが、いちばん伝えたかったのは、「希望を失わなければ、老いてもここまでいけるんだ」ということ。あきらめたらすべてが終わってしまう。もちろん、「本当にあれでよかったのだろうか」という思いは今でも消えてはいません。自宅にいる最後の猫を見送ったら、私ももう少し身軽になれるのでしょうか。この子がいない生活なんて、まだ想像もつきませんけれど。

《ゲスト紹介》


市毛良枝


いちげ・よしえ 1950年、静岡県生まれ。文学座附属演劇研究所、劇団俳優小劇場の養成所を経て、1971年、テレビドラマ『冬の華』(TBS系)でデビュー。1977年から放送開始され初井言榮と共演した『嫁姑シリーズ』(フジテレビ系)の若妻役で人気を博し、「お嫁さんにしたい女優ナンバーワン」と呼ばれた。40歳で登山を始め、1993年にアフリカ最高峰のキリマンジャロへ登頂。以来、ヒマラヤをはじめ国内外の山々を歩き、NPO法人日本トレッキング協会理事も務める。1998年に環境庁(現・環境省)環境カウンセラーに登録。2025年11月、100歳の母の介護と見送りの経験をつづった『百歳の景色見たいと母は言い』(小学館)を上梓。2026年10月3日スタートの土ドラ『再生のウズメ』(東海テレビ/フジテレビ系)にも出演中。

100歳で逝った母の介護の日々
『百歳の景色見たいと母は言い』(小学館)

 父が他界してから10年間、習い事や外出を楽しんでいた母。しかし、88歳で脳梗塞を発症してからは要介護状態となる。それから100歳まで生きた母を13年間にわたって介護し、見送るまでの日々。
 施設への入所と退所、市毛さん自身の介護うつ、在宅介護の現実、そして90代の車椅子の母を笑顔にしたいがために連れていったアメリカ・オレゴンへの旅など、笑いあり涙ありの日々をつづる。母と娘の関係を通し、介護する側もされる側もともに後悔しない人生を送ることの大切さを伝えてくれる1冊。

10月クールフジ系土ドラ
『再生のウズメ』


 12年間、引きこもり生活を続ける独身・無職・40歳の元子役・田村ウズメ(イモトアヤコ)が、便利屋での仕事を通して社会や人とのつながりを取り戻していく、“人生の再生”を描くヒューマンドラマ。市毛さんは、主人公の母・咲子役を演じる。
「原作や台本を読んで、私もウズメかも……と思いました。ひとつボタンをかけ違えていたら、私もウズメのように、自宅で映画を観ては文句ばかり言っていたかもしれないな、と(笑)」とのこと。
毎週土曜23時40分から東海テレビ・フジテレビ系にて全国ネット放送。原作は天堂きりん氏の漫画『再生のウズメ』(祥伝社 FEEL COMICS)